僕のオカルト道の師匠は当時家賃9000円の酷いアパート
に住んでいた。
鍵もドラム式で掛けたり掛けなかったりだったらしい。
ある朝目が覚めると見知らぬ男の人が枕元に座ってて
「おはようございます」
というので
「おはようございます」と挨拶すると
宗教の勧誘らしきことをはじめたから
「さようなら」といってその人おいたまま家を出てきたという
逸話がある。
防犯意識皆無の人で、僕がはじめて家に呼んでもらった時も
当然鍵なんか掛けていなかった。
酒を飲んで2人とも泥酔して、気絶するみたいにいつのまにか
眠っていた。
僕が夜中に耳鳴りのようなものを感じて目を覚ますと、横に寝て
いた師匠の顔を除き込むようにしている男の影が目に入った。
僕は泥棒だと思い、一瞬パニックになったが体が硬直して
声をあげることもできなかった。
僕はとりあえず寝てる振ふりをしながら、薄目をあけてそっちを
凝視していると男はふらふらした足取りで体を起こすと玄関の
ドアのほうへ行きはじめた。
『いっちまえ。何も盗るもんないだろこの部屋』
と必死で念じていると男はドアを開けた。
薄明かりの中で一瞬振り返ってこっちを見た時、右頬に引き攣り
傷のようなものが見えた。
男が行ってしまうと僕は師匠をたたき起こした。
「頼むから鍵しましょうよ!」もうほとんど半泣き。
しかし師匠とぼけて曰く
「あー怖かったー。でも今のは鍵しても無駄」
「なにいってるんすか。アフォですか。ていうか起きてたんすか」
僕がまくしたてると師匠はニヤニヤ笑いながら
「最後顔見ただろ」
頷くと、師匠は自分の目を指差してぞっとすることを言った。
「メガネ」
それで僕はすべてを理解した。
僕は視力が悪い。眼鏡が無いとほとんど何も見えない。
今も間近にある師匠の顔でさえ、輪郭がぼやけている。
「眼鏡ナシで見たのは初めてだろ?」
僕は頷くしかなかった。
そういうものだとはじめて知った。
結局あれは行きずりらしい。何度か師匠の部屋に泊まったが
2度と会うことはなかった。
|
僕がド田舎から某中規模都市の大学に入学した時。
とりあえず入ったサークルにとんでもない人がいた。
大学受験期にストレスからかやたら金縛りにあってて
色々怖い目にあったことから、オカルトへの興味が高まって
いた時期で、そんな話をしているとある先輩が
「キミィ。いいよ」と乗ってきてくれた。
その先輩は院生で仏教美術を専攻している人だった。
すっかり意気投合してしまい、見学にいったその日の夜ドライブ
に連れて行ってもらった。
夜食を食べに行こうと言って、えらい遠くのファミレスまで連れていか
れた。
そこは郊外のガストで、「なんでここなんですか?」って表情をしてたら
先輩曰く
「ここな、出るよ。俺のお気に入り」
アワアワ…
ファミレス自体始めての田舎者の僕は、それでさえ緊張してるのに
出るってアンタ。
「俺が合図したら俯けよ。足だけなら見えるはず」
そんなことを言われて飯が美味いはずがない。
もさもさ食ってると、急に耳鳴りが・・・・・
冷や汗が出始めて、手が止ると先輩が
「オイ。俯けよ」
慌ててテーブルに目を落した。
しばらくじっとしてると、ていうか動けないでいると
視線の右端、テーブルのすぐ脇を白い足がすーっと
通りすぎた。
いきなり肩を叩かれて我に返った。
「見たか?」
リングの公開前だったが、のちに見ると高山が街で女の足を見るシーン
がこれにそっくりだった。
僕が頷くと
「今のが店員の足が一人分多いっていう このガストの怪談の出所。
俺はまるまる見えるんだけどな。 顔は見ない方が幸せだ」
なんなんだ、この人。
「早く食べろ。俺嫌われてるから」
俺もわりに幽霊は見る方なんだが、こいつはとんでもない人だと
この時自覚した。
そのあと空港へ向う山道の謎の霧だとか、先輩お気に入りの
山寺巡りなどに連れまわされて、朝方ようやく解放された。
以来俺はその先輩を師匠と仰ぐことになった。
それは師匠の謎の失踪まで続く。
|
寝れないので、再度登場。
師匠との話をまだいくつか書くつもりだが、俺が途中で飽きるかも
しれんし、叩かれてへこんで止めるかもしれないので先に一連の
出来事の落ちである、師匠の失踪について書いておく。
俺が3回生(単位27。プw)の時、師匠はその大学の図書館司書の
職についていた。
そのころ師匠はかなり精神的に参ってて、よく
「そこに女がいる!」とか言っては何も無い空間にビクビクしていた。
俺は何も感じないが、俺は師匠より霊感がないので師匠には見える
んだと思って一緒にビビっていた。
変だと思いはじめたのは、3回生の秋頃。
師匠とはめったに会わなくなっていたが、あるとき学食で一緒にな
って同じテーブルについたとき
「後ろの席、何人見える?」と言いだした。
夜九時前で学食はガラガラ。後ろのテーブルにも誰も座っていなかった。
「何かみえるんすか?」というと
「いるだろう? 何人いる?」とガタガタ震えだした。
耳鳴りもないし、出る時独特の悪寒もない。
俺はその時思った。
憑かれてると思いこんでるのでは・・・・・
俺は思いついて
「大丈夫ですよ。なにもいませんよ」
というと
「そうか。そうだよね」
と安心したような顔をしたのだ。
確信した。
霊はここにいない。
師匠の頭に住みついてるのだ。
『発狂』という言葉が浮んで俺は悲しくなり、無性に泣きたかった。
百話物語りもしたし、肝試しもしまくった。
バチ当たりなこともいっぱいしたし、降霊実験までした。
いいかげん取り憑かれてもおかしくない。
でも多分師匠の発狂の理由は違う。
食事をした3日後に師匠は失踪した。
探すなという置手紙があったので、動けなかった。
師匠の家庭は複雑だったらしく、大学から連絡がいって叔母
とかいう人がアパートを整理しに来た。
すごい感じ悪いババアで、親友だったと言ってもすぐ追い出された。
師匠の失踪前の様子くらい聞くだろうに。
結局それっきり。
しかし俺なりに思うところがある。
俺が大学に入った頃、まことしやかに流れていた噂。
「あいつは人殺してる」
冗談めかして先輩たちが言っていたが、あれは多分真実だ。
師匠はよく酔うと言っていたことがある。
「死体をどこに埋めるか。それがすべてだ」
この手のジョークは突っ込まないという暗黙のルールがあったが
そんな話をするときの目がやたら怖かった。
そして今にして思い、ぞっとするのだが
師匠の車でめぐった数々の心霊スポット。
中でもある山(皆殺しの家という名所)に行ったときこんなこと
を言っていた。
「不特定多数の人間が深夜、人を忍んで行動する。
そして怪奇な噂。
怨恨でなければ、個人は特定できない」
聞いた時はなにをいっているのか分らなかったが、多分
師匠は心霊スポットを巡りながら埋める場所を探していた
のではないだろうか。
俺がなによりぞっとするのは、俺が助手席に乗っているとき
あの車のトランクのなかにそれがあったなら・・・・・・
今思うとあの人についてはわからないことだらけだ。
ただ「見える」人間でも心の中に巣食う闇には勝てなかった。
性格が変わった、あのそうめん事件のころから師匠は
徐々に狂いはじめていたのではないだろうか。
師匠の忘れられない言葉がある。
俺がはじめて本格的な心霊スポットに連れて行かれ、ビビリ
きっているとき師匠がこういった。
「こんな暗闇のどこが怖いんだ。目をつぶってみろ。
それがこの世で最も深い闇だ」
|
これは怪談じゃないが話しておかなくてならない。
僕のオカルト道の師匠が、急にサークルに顔を出さなくなった。
師匠の同期の先輩がいうには大学にも来てないとのこと。
心配になって僕は師匠の家に直接いってみた。
すると案の定鍵が開いていたのでノックして乗り込むと
ゲッソリした師匠が布団に寝ている。
話を聞いてみると
「食欲が無くてもう1週間そうめんしか食べてない」
そりゃやつれるわ。と思い
僕が「何か食うもんないんですか? 死にますよ」
といって部屋をあさったが何も出てこない。
「夏バテですか?」
と聞いたが答えない。何も答えてくれないので
もう知らんわい、と僕は薄情にも家を出た。
僕は師匠を恐れてはいたが、妙に彼は子供っぽいところが
あり、ある面僕はナメていた。その頃にはため口もきいたし。
二日後にまた行くと、同じ格好で寝ている。
部屋から一歩も出ずに1日中ゴロゴロしているそうだ。
「そうめんばっかりじゃもちませんよ」
と僕がいうと師匠は急に うっぷ と胸を押えて
トイレにかけこんだ。
背中をさすると、ゲロゲロと吐き始めた。
それを見ながら僕は
「白いそうめんしか食ってなくても、ゲロはしっかり茶色い
んだなぁ」と変なことを考えていたが
ふと気付いた。そういえば・・・
もう一度あさったがやはり何もない。
そうめんさえこの部屋にはないのだ。
「なに食ってるんスか先輩」
と詰め寄ったが答えてくれない。
なにかに憑かれてんじゃねーのかこの人?
と思ったが、僕にはどうしようもない。
取りあえずむりやり病院に連れて行くと、栄養失調で
即入院になった。
点滴打ってると治ったらしく4日後には退院してきたが
あの引きこもり中に何を食べていたのか、結局教えてくれなかった。
ただなぜかそれから口調が急に変わった。
「俺。オイコラ」から、大人しい「僕。〜だね。〜だよ」
になり、子供っぽさが加速した。
その一回生の夏、僕は師匠とオカルトスポットに行きまくった
のだが、おかげで頼りがいがなく色々ヤバイ目にあう。
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強烈な体験がある。
夏だからーという安直な理由でサークル仲間とオカルトスポットに
行くことになった。
東山峠にある東山ホテルという廃屋だ。
俺はネットで情報を集めたが、とにかく出るということなのでここに
きめた。
とにかく不特定多数の証言から
「ボイラー室に焼け跡があり、そこがヤバイ」
などの情報を得たが特に
「3階で人の声を聞いた」
「何も見つからないので帰ろうとすると3階の窓に人影が見えた」
と、3階に不気味な話が集中しているのが気に入った。
雰囲気を出すために俺の家でこっくりさんをやって楽しんだあと
12時くらいに現地へ向った。
男4女4の大所帯だったので、結構みんな余裕だったが東山ホテル
の不気味な大きい影が見えてくると空気が変わった。
隣接する墓場から裏口に侵入できると聞いていたので、動きやす
い服を来てこいとみんなに言っておいたが、肝心の墓場がない。
右側にそれらしいスペースがあるが広大な空き地になっている。
「墓なんてないぞ」
と言われたが、懐中電灯をかざして空き地の中に入ってみると
雛壇のようなものがあり、変な形の塔が立っていた。
「おい、こっち何か書いてある」
言われて記念碑のみたいなものを照らして見ると
「殉職者慰霊塔」
ヒィィー
昭和3×年 誰某 警部補
みたいなことが何十と列挙されていた。
もうその佇まいといい、横の廃屋といい、女の子の半分に泣きが
入った。
男まで「やばいっすよここ」と真剣な顔してい出だす始末。
俺もびびっていたが帰ってはサブすぎるので、なんとかなだめ
すかして奥にある沢を越えホテルの裏口に侵入した。
敷地から、1ヵ所開いていた窓を乗り越えて中に入ると部屋は
電話機やら空き缶やら様々なゴミが散乱していた。
風呂場やトイレなど、汚れてはいたが使っていたそのまま
の感じだ。
部屋から廊下にでると剥がれた壁や捲くれあがった絨毯で
いかにもな廃屋に仕上がっている。
懐中電灯が2個しかないのでなるべく離れない様にしながら
各個室やトイレなどの写真をとりまくった。
特に台所は用具がまるまる残っていて、帳簿とかもあった。
噂だがここはオーナーが気が狂って潰れたという。
1階を探索して少し気が大きくなったので2階へ続く階段を見つ
けて、のぼった。
2階のフロアについて、噂の3階へそのまま行こうかと話していた
時だ。
急に静寂のなかに電話のベルが鳴り響いた。
3階の方からだ。
女の子が悲鳴をあげてしまった。
連鎖するように動揺が広がって何人か下へ駆け降りた。
「落ちつけ。落ちつけって」
最悪だ。パニックはよけいな事故を起こす。
俺は上がろうか降りようか逡巡したが、ジリリリリリという
気味の悪い音は心臓に悪い。
「走るな。ゆっくり降りろよ」
と保護者の気分で言ったが、懐中電灯を持っている二人は
すでに駆け降りてしまっている。
暗闇がすうっと下りてきて、ぞっとしたので俺も慌てて走った。
広くなっている1階のロビーあたりで皆は固まっていた。
俺が着いたときに、ふっ、と電話は止った。
「もう帰る」
と泣いてる子がいて、気まずかった。
男たちも青い顔をしている。
その時一番年長の先輩が口を開いた。
俺のオカルト道の師匠だ。
「ゴメンゴメン。ほんとにゴメン」
そういいながらポケットから携帯電話を取り出した。
「こんなに驚くとは思わなかったから、ゴメンね」
曰く、驚かそうとして昼間に携帯を一台3階に仕込んでおいたらしい。
それで頃合をみはからってこっそりそっちの携帯に電話したと。
アフォか! やりすぎだっつーの。
もうしらけてしまったので、そこで撤退になった。
帰りしな師匠が言う。
「あそこ洒落にならないね」
洒落にならんのはアンタだと言いそうになったが師匠は続けた。
「僕たちが慰霊塔見てる時、ホテルの窓に人がいたでしょ」
見てない。あの時ホテルのほうを見るなんて考えもしない。
「夏だからDQNかと思ったけど、中に入ったら明らかに違った。
10人じゃきかないくらい居た。上の方の階」
「居たって・・・」
「ネタのためにケータイもう一個買うほどの金あると思う?」
そこで俺アワアワ状態。
「あれはホテルの電話。音聞いたでしょ。じりりりりり」
たしかに。
みんなを送って行ったあと、師匠がとんでもないことを言う。
「じゃ、戻ろうかホテル」
俺は勘弁してくれと泣きつき、解放された。
しかし師匠は結局一人でいったみたいだった。
後日どうなったか聞いてみると、ウソか本当かわからない表情で
「また電話が掛かってきてね。出ても受話器からジリリリリリリ。
根性なしが!! って一喝したらホテル中のが鳴り出した。
ヤバイと思って逃げた」
|
師匠には見えて、僕には見えないことがしばしばあった。
夏前ごろ、オカルト道の師匠に連れられてコジョウイケトンネルに
深夜ドライブを敢行した。
コジョウイケトンネルは隣のK市にある有名スポットで、近辺で5指に入る
名所だ。
K市にはなぜか異様に心霊スポットが多い。
道々師匠が見所を説明してくれた。
「コジョウイケトンネルはマジで出るぞ。手前の電話ボックスもヤバイが
トンネル内では入りこんでくるからな」
入りこんでくるという噂は聞いたことがあった。
「特に3人乗りが危ない。一つだけ座席をあけていると、そこに乗ってくる」
僕は猛烈に嫌な予感がした。
師匠の運転席の隣にはぬいぐるみが座っていた。
僕は後部座席で一人観念した。
「乗せる気ですね」
トンネルが見えてきた。
手前の電話ボックスとやらにはなにも見えなかったが、トンネル内に入ると
さすがに空気が違う。
思ったより暗くて僕はキョロキョロ周囲を見まわした。
少し進んだだけで、これは出る、と確信する。
耳鳴りがするのだ。
僕は右側に座ろうか左側に座ろうか迷って、真ん中あたりでもぞもぞし
ていた。
右側の対抗車線からくるか、左の壁側からくるのか。
ドキドキしていると、いきなり師匠が叫んだ。
「ぶっ殺すぞコラァッァ!!!」
僕が言われたのかと縮みあがった。
「頭下げろ、触られるな」
耳鳴りがすごい。しかし何も見えない。
慌てて頭を下げるが、見えない手がすり抜けたかと思うと心臓に悪い。
「逃げるなァ!! 逃げたらもう一回殺す!」
師匠が啖呵を切るのはなんどか見たが、これほど壮絶なのは初めて
だった。
「おい、逃がすな、はやく写真とれ」
心霊写真用に僕がカメラを預かっていたのだ。
しかし・・・
「どっちっスか」
「はやく、右の窓際」
「見えませんッ」
「タクシーの帽子! 見えるだろ。 逃げるなコラァ! 殺すぞ」
「見えません!」
ちっ、と師匠は舌打ちして前を向き直った。
ブレーキ掛ける気だ・・・
俺は真っ青になって、めったやたらにシャッターを切った。
トンネルを出た時には生きた心地がしなかった。
後日現像された写真を見せてもらうとそこには窓と、そのむこうのトン
ネル内壁のランプが写っていた。
師匠は不機嫌そうに言った。
「俺から見て右の窓だった」
よく見ると窓にうつるカメラを構えた僕の肩の後ろに、うっすらとタクシー
帽を被った初老の男の怯えた顔が写っていた。
|
俺にはオカルト道の師匠がいるのだが、やはり彼なりの霊の捉え方が
あってしばしば「霊とはこういうもの」と講釈をしてくれた。
師匠曰く、
ほとんどの霊体は自分が死んでいることをよくわかっていない。
事故現場などにとどまって未だに助けを求めているやつもいれば、
生前の生活行動を愚直に繰り返そうとするやつもいる。
そういうやつは普通の人間が怖がるものはやっぱり怖いのさ。
ヤクザも怖ければ獰猛な犬も怖い。キチガイも。
怒鳴ってやるだけで、可哀相なくらいびびるやつもいる。
問題は恫喝にもびびらないやつ。
自分が死んでいることを理解しているやつには関わらない方がいい。
といったことなどをよく言っていたが、これは納得できる話だしよく
聞く話だ。
しかし、ある時教えてくれたことは師匠以外の人から聞いたことがなく、
未だにそれに類する話も聞いたことがない。
俺の無知のせいかもしれないが、このスレの人たちはどう思うだろうか。
大学二年の夏ごろ、俺は変わったものを立て続けに見た。
最初ははじめて行ったパチンコ屋で、パチンココーナーをウロウロしていると
ある台に座るオッサンの異様に思わず立ち止まった。
下唇が異常なほど腫れあがって垂れ下がっている。
ほとんど胸に付くくらい、ボテっと。
そういう病気の人もいるんだなあと思い、立ち去ったがその次の日のこと。
街に出るのにバスに乗り、乗車口正面の席に座ってぼうっとしていると
前の席に座る人の手の指が多いことに気付いた。
肘掛に乗せている手の指がどう数えても6本あるのだ。
左端に親指があるのはいいのだが反対の端っこに大きな指がもう一本生
えている。
多指症というやつだろうか。
その人は俺よりさきに降りていったが、他の誰もジロジロみている気配は
なかった。
気付かないのか、と思ったがあとで自分の思慮のなさに思い至った。
そしてまた次の日、今度は小人を見た。
これもパチンコ屋だが、子供がチョロチョロしてるなあと思ったら顔を見ると
中年だった。
男か女かよくわからない独特の顔立ちで、甲高い声で「出ないぞ」みたいな
ことを言っていた。
足もまがってるせいか、かなり小さい。背の低い俺の胸までもないくらい。
こんどはあまりジロジロ見なかったが、奇形を見るのが立て続いたので
そういうこともあるんだなあと不思議な気持ちになった。
このことを師匠に話すと、喜ぶと思いきや難しい顔をした。
師匠は俺を怖がらせるのが好きなので「祟られてるぞ」とか
無責任なことを言いそうなものだったが。
暫く考えて師匠は両手を変な形に合わせてから口を開いた。
「一度見ると、しばらくはまた他人を注意して見るようになる。
そういうこともあるさ。蓋然性の問題だね。
ただ、さっきの話でひとつおかしいところがある。 」
「乗車口正面の席は右手側に窓があるね」
何を言い出すのかと思ったが頷いた。
「当然その前の席も同じだ。さて、君が見た肘掛に乗せた手は
右手でしょうか、左手でしょうか」
意味がわからなかったので、首を振った。
「窓際に肘掛があるバスもあるけど、君によく見え、また他の人が気づ
かないのを不思議に思うという状況からしてその肘掛は通路側だ。
ということは親指が左側にあってはよくないね」
あっ、と思った。
「左手が乗ってなきゃいけないのに、乗っていたのはまるで右手だね。
6本あったことだけじゃなく、そこにも気付くはずだ。聞いただけの
僕にもあった違和感が、ジロジロ見ていた君にないのはおかしい」
これから恐ろしいことを聞くような気がして、冷や汗が流れた。
「他の2つの話では、女なのか男なのか容姿に触れた部分があったけど
バスの話では無い。席を立ったのだから、見ているはずなのに。
見えているものの記憶がはっきりしない。君はあやふやな部分を無意識
に隠し、それをただの奇形だと思おうとしている。
もう一度聞くがそれをジロジロ見ていたのは君だけなんだね?」
師匠は組んだ手を掲げた。
「いいかい。利き腕を出して。君は右だね。掌を下にして。その手の上に
左の掌を下にしてかぶせて。 親指以外が重なるように。そうそう。
左の中指が右の薬指に重なるくらいの感じ。左が気持ち下目かな。
残りの指も長さが合わなくても重なるように。すると指は6本になるね」
これはやってみてほしい。
「親指が2本になり、左右対象になったわけだ。どんな感じ?」
不思議な感覚だ。落ち着くというか。安心するというか。
普通に両手を合わせるよりも一体感がある。
そのまま上下左右に動かすと特に感じる。
「これは人間が潜在意識のなかで望んでいる掌の形だよ。
左右対象で、両脇の親指が均等な力で物を掴む。
僕はこんな『親指が二本ある幽霊』を何度か見たことがある」
「あれは俺だけに見えていた霊だったと?」
「多分ね。 たまにいるんだよ。生前のそのままの姿でウロつく霊も
いれば、より落ちつくように、不安定な自分を保とうとするように、
両手とも利き腕になっていたり、左右対象の6本指になっていたり・・・
本人も無意識の内に変形しているヤツが。」
師匠はそう言って擬似6本指で俺にアイアンクローを掛けてきた。
不思議な話だった。
そんな話は寡聞にして聞いたことがない。
両手とも利き腕だとか・・・・
怪談本の類はかなり読んだけどそういうことに触れている本には
お目にかかったことが無い。
師匠のはったりなのか、それとも俺の知らない世界の道理なのか。
いまは知りようもない。
|
僕の畏敬していた先輩の彼女は変な人だった。
先輩は僕のオカルト道の師匠であったが、彼曰く
「俺よりすごい」
仮に歩くさんとするが、学部はたしか文学部で学科は忘れてしまった。
大学に入ったはじめの頃に歩くさんと、サークルBOXで2人きりになった
ことがあった。
美人ではあるが表情にとぼしくて何を考えているかわからない人だったので
僕ははっきりこの人が苦手だった。
ノートパソコンでなにか書いていたかと思うと急に顔を上げて変なことを言った。
「文字がね、口に入ってくるのよ」
ハア?
「時々夜文章書いてると、書いた文字が浮き上がって私の口に入りこんでくるのよ」
「は、はあ」
な、何?この人。
「わかる? それが止らないのね。書いた分より多いのよ。いつまでも口に
入りつづけるのよ。そのあいだ口を閉じられないの。私はそれが一番怖い」
真剣な顔をして言うのだ。
当時は電波なんて言葉は流通してなかったがモロに電波だった。
しかしただのキチ○ガイでもなかった。
頭は半端じゃなく切れた。師匠がやり込められるのを度々見ることがあった。
歩くさんはカンも鋭くて、バスが遅れることを言い当てたり、「テレビのチャンネル
を変えろ」というので変えると巨人の松井がホームランを打つところだったりした
ことがしばしばだった。
ある時師匠になにげなく歩くさんってなんなんですかねーと言ってみると
「エドガーケイシーって知ってるか?」と言う。
「もちろん知ってますよ。予知夢だか催眠状態だかで色々言い当てる人でしょ」
「それ。たぶん、歩くも」
「どういうことですか」
「あいつの寝てるところを見せてやりてえよ。怖いぞ」
どう怖いのか、よくわからなかったがはぐらかされた。
「エドガーケイシーはちょっと専門外だが、やつみたいな後天的ショック
じゃなく、歩くはおそらく先天的な体質だ」
「予知夢見るわけですか?」
「よく分らん。起きてるのかどうかも分らん。ただあたりもするし、外れもする。
お前が金縛り中にみるっていう擬似体験に近いのかもしれん」
僕は金縛り中に「起きたつもりがまたベットの中」という、わりによく聞く現象に
しばしばあっていたのだが、それが時に長時間、ひどい時は丸1日生活したあげく
巻き戻るということがあり、自分でも高校時代に金縛りノートを作って研究していた。
師匠がそのノートをやたら気に入り、くれくれうるさいのであげてしまっていた。
今思うと、歩くさんの体質を調べる資料として欲しがったのではないだろうか。
「先輩は歩くさんを一人じめしてるわけですか」
師匠はニヤっと笑って懐からフロッピーを出して振ってみせた。
それはタイミングが良すぎたのでたぶんハッタリだが、師匠がなんらかの
形で歩くさんファイルみたいなものを作っていたのは間違いない。
そんなことよりも僕がぞっとしたのは、歩くさんが卒業する時
「洪水に気をつけろ」みたいなことを僕に言ったことだ。
そのことをすっかり忘れていたが、僕は就職に失敗して今田舎に帰って
いるのだが、実家はモロに南海大地震が来たら水没しかねない立地
条件にあるのだ。
次の南海地震の死者は県内で最大3万人と最近の推計が出ている。
勘弁してくれ。マジで怖い。
あと何年で来るんだよー。メソメソ
|
これは俺の体験の中でもっとも恐ろしかった話だ。
大学1年の秋頃、俺のオカルト道の師匠はスランプに陥っていた。
やる気がないというか、勘が冴えないというか。
俺が「心霊スポットでも連れて行ってくださいよ〜」
と言っても上の空で、たまにポケットから1円玉を4枚ほど出したかとおもうと
手の甲の上で振って、
「駄目。ケが悪い」
とかぶつぶつ言っては寝転がる始末だった。
それがある時急に「手相を見せろ」と手を掴んできた。
「こりゃ悪い。悪すぎて僕にはわかんない。気になるよね? ね?」
勝手なことを言えるものだ。
「じゃ、行こう行こう」
無理やりだったが師匠のやる気が出るのは嬉しかった。
どこに行くとは言ってくれなかったが、俺は師匠に付いて電車に乗った。
ついたのは隣の県の中核都市の駅だった。
駅を出て、駅前のアーケード街をずんずん歩いて行った。
商店街の一画に『手相』という手書きの紙を台の上に乗せて座っているおじ
さんがいた。
師匠は親しげに話しかけ、「僕の親戚」だという。
宗芳と名乗った手相見師は「あれを見に来たな」というと不機嫌そうな顔を
していた。
宗芳さんは地元では名の売れた人で、浅野八郎の系列ということだった。
俺はよくわからないままとりあえず手相を見てもらったが、女難の相が出てる
こと以外は特に悪いことも言われなかった。
金星環という人差し指と中指の間から小指まで伸びる半円が強く出ている
といわれたのが嬉しかった。芸術家の相だそうな。
先輩は見てもらわないんですか?と言うと、宗芳さんは師匠を睨んで
「見んでもわかる。死相がでとる」
師匠はへへへと笑うだけだった。
夜の店じまいまできっかり待たされて、宗芳さんの家に連れて行ってもらった。
大きな日本家屋だった。
手相見師は道楽らしかった。
晩御飯のご相伴にあずかり、泊まって行けというので俺は風呂を借りた。
風呂からでると、師匠がやってきて「一緒に来い」という。
敷地の裏手にあった土蔵に向うと、宗芳さんが待っていた。
「確かにお前には見る権利があるが、感心せんな」
師匠は硬いことを言うなよ、と土蔵の中へ入って行った。
土蔵の奥に下へ続く梯子のような階段があり、俺たちはそれを降りた。
今回の師匠の目的らしい。
俺はドキドキした。
師匠の目が輝いているからだ。
こういう時はヤバイものに必ず出会う。
思ったより長く、まるまる地下二階くらいまで降りた先には、畳敷きの地下室
があった。
黄色いランプ灯が天井に掛かっている。
六畳ぐらいの広さに壁は土が剥き出しで、畳もすぐ下は土のようだった。
もともとは自家製の防空壕だったと、あとで教わった。
部屋の隅に異様なものがあった。
それは巨大な壷だった。
俺の胸ほどの高さに、抱えきれない横幅。
しかも見なれた磁器や陶器でなく、縄目がついた素焼きの壷だ。
「これって、縄文土器じゃないんスか?」
宗芳さんが首を振った。
「いや、弥生式だな。穀物を貯蔵するための器だ」
そんなものがなんでここにあるんだ? と当然思った。
師匠は壷に近づくとまじまじと眺めはじめた。
「これはあれの祖父がな、戦時中のどさくさでくすねてきたものだ」
宗芳さんは俺でも知っている遺跡の名前をあげた。
その時、師匠が口を開いた。
「これが穀物を貯蔵してたって?」
笑ってるようだ。
黄色い灯りの下でさえ、壷は生気がないような暗い色をしていた。
宗芳さんが唸った。
「あれの祖父はな、この壷は人骨を納めていたという」
「見えると言うんだ。壷の口から覗くと、死者の顔が」
俺は震えた。
秋とはいえ、まだ初秋だ。肌寒さには遠いはずが、寒気に襲われた。
「ときに壷から死者が這い上がって来るという。死者は部屋に満ち、
土蔵に満ち、外から閂をかけると町中に響く声で泣くのだという」
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
くらくらする。頭の中を蝿の群れが飛び回っているようだ。
鼻をつく饐えた匂いが漂い始めた。
まずい。この壷はまずい。
霊体験はこれでもかなりしてきた。
その経験がいう。
師匠は壷の口を覗き込んでいた。
「来たよ。這いあがって来てる。這いあがれ。這いあがれ」
目が爛々と輝いている。
耳鳴りだ。蝿の群れのような。
今までにないほどの凄まじい耳鳴りがしている。
バチンと音がして灯りが消えた。
消える瞬間に青白い燐が壷から立つのが確かに見えた。
「いかん、外に出るぞ」宗芳さんが慌てて言った。
「見ろよ! こいつらは2千年立ってもまだこの中にいるんだよ!」
宗芳さんは喚く師匠を抱えた。
「こいつら人を食ってやがったんだ! これが僕らの原罪だ!」
俺は腰が抜けたようだった。
「ここに来い。僕の弟子なら見ろ。覗き込め。この闇を見ろ。
此岸の闇は底無しだ。あの世なんて救いはないのさ。
食人の、共食いの業だ! 僕はこれを見るたびに確信する!
人間はその本質から生きる資格のないクソだと!」
俺はめったやたらに梯子を上り、逃げた。
宗芳さんは師匠を引っ張り出し、土蔵を締めると今日はもう寝て明日帰れと言った。
その夜、一晩中強い風が吹き俺は耳を塞いで眠った。
その事件のあと、師匠は元気を、やる気を取り戻したが俺は複雑な気持ちになった。
|
大学一年目のGWごろから僕はあるネット上のフォーラムによく顔を出していた。
地元のオカルト好きが集まる所で、深夜でも常に人がいて結構盛況だった。
梅雨も半ばというころにそこで「降霊実験」をしようという話が持ち上がった。
常連の人たちはもう何度かやっているそうで、オフでの交流もあるらしかった。
オカルトにはまりつつあった僕はなんとか仲間に入りたくて
「入れて入れて。いつでもフリー。超ひま」とアピールしまくってokがでた。
中心になっていたkokoさんという女性が彼女曰く霊媒体質なのだそうで、
彼女が仲間を集めて降霊オフをよくやっていたそうである。
日にちが決まったが、都合がつく人が少なくて
koko みかっち 京介 僕
というメンバーになった。
人数は少ないが3人とも常連だったので、「いいっしょー?」
もちろん異存はなかったが、僕は新入りのくせにある人を連れて行きたくてうずうず
していた。
それは僕のサークルの先輩で僕のオカルト道の師匠であり、霊媒体質でこそないが
いわゆる「見える」人だった。
この人の凄さに心酔しつつあった僕はオフのメンバーに自慢したかったのだ。
しかし師匠に行こうと口説いても頑として首を縦に振らない。
めんどくさい。ばかばかしい。子守りなんぞできん。
僕はなんとか説得しようと詳しい説明をしていたら、kokoさんの名前を出した所で
師匠の態度が変わった。
「やめとけ」というのである。
なぜですか、と驚くと「怖い目にあうぞ」
口振りからすると知っている人のようだったが、こっちは怖い目にあいたくて参加する
のである。
「まあ、とにかく俺は行かん。何が起きてもしらんが、行きたきゃ行け」
師匠はそれ以上なにも教えてくれなかったが、師匠のお墨付きという、思わぬ所から
のオフの楽しみが出てきた。
当日市内のファミレスで待ち合わせをした。
そこで夕食を食べながらオカルト談義に花を咲かせ、いい時間になったら会場である
kokoさんのマンションに移動という段取りだった。
kokoさんは綺麗な人だったが、抑揚のないしゃべり方といい気味の悪い印象をうけた。
みかっちさんはよく喋る女性で、kokoさんは時々それに相槌をこっくり打つという感じだ。
驚いたことに2人とも僕の大学の先輩だった。
「キョースケはバイトあるから、あとで直接ウチにくるよ」とkokoさんがいった。
僕はなんとなく恋人どうしなのかなあ、と思った。
そして夜の11時を回るころみかっちさんの車で3人でマンションに向かった。
京介さんからさらに遅れるという連絡が入り、もう始めようということになった。
僕は俄然ドキドキしはじめた。
kokoさんはマンションの一室を完全に目張りし、一切の光が入らないようにしていた。
こっくりさんなら何度もやったけれど、こんな本格的なものははじめてだ。
交霊実験ともいうが、降霊実験とはつまり霊を人体に降ろすのである。
真っ暗な部屋にはいると、ポッと蝋燭の火が灯った。
「では始めます」
kokoさんの表情から一切の感情らしきものが消えた。
「今日は初めての人がいるので説明しておきますが、これから何が起こっても決して
騒がず、心を平静に保ってください。心の乱れは必ず良くない結果を招きます」
kokoさんは淡々と喋った。みかっちさんも押し黙っている。
僕は内心の不安を隠そうと、こっくりさんのノリで
「窓は開けなくてもいいんですか?」と言ってみた。
kokoさんは能面のような顔で僕を睨むと囁いた。
「窓は霊体にとって結界ではありません。通りぬけることを妨げることはないのです。
しかしこれから行なうことは私の体を檻にすること。うまく閉じこめられればいいの
ですが、万が一・・・・」
そこで口をつぐんだ。僕はやりかえされたわけだ。
逃げ出したくなるくらい心臓が鳴り出した。
しかしもう後戻りはできない。
降霊実験が始まった。
僕は言われるままに目を閉じた。
蝋燭の火が赤くぼんやりと瞼にうつっている。
どこからともなくkokoさんの声が聞こえる。
「・・・ここはあなたの部屋です。見覚えのある天井。窓の外の景色。
・・・さあ起き上がってみてください。伸びをして、立つ。
・・・すると視界が高くなりました。あたりを見まわします。
・・・扉が目に入りました。あなたは部屋の外に出ようとしています」
これは。
あれではないだろうか。目をつぶって頭の中で自分の家を巡るという。
そしてその途中でもしも・・・という心理ゲームだ。
始める直前にkokoさんがいった言葉が頭をかすめた。
『普通は霊媒に降りた後、残りの人が質問をするという形式です。
しかし私のやりかたでは、あなた方にも<直接>会ってもらいます』
僕は事態を飲みこめた。恐怖心は最高潮だったが、こんな機会はめったにない。
鎮まれ心臓。鎮まれ心臓。
僕はイメージの中へ没頭していった。
く。
という変な声がしてkokoさんが体を震わせる気配があった。
「手を繋いでください。輪に」
目を閉じたまま手探りで僕らは手を繋いだ。
フッという音とともに蝋燭の火照りが瞼から消え、完全な暗闇が降りてきた。
かすかな声がする。
「・・・あなたは部屋をでます。廊下でしょうか。キッチンでしょうか。
いつもと変わりない、見なれた光景です。あなたは十分見まわしたあと、
次の扉を探します・・・」
僕はイメージのなかで下宿ではなく、実家の自室にいた。
すべてがリアルに思い描ける。
廊下を進み、両親の寝室を開けた。
窓から光が射し込んでいる。畳に照り返して僕は目を細める。
僕は階段を降り始めた。キシキシ軋む音。手すりの感触。
すぐ左手に襖がある。客間だ。いつも雨戸を降ろし、昼間でも暗い。
僕は子供の頃ここが苦手だった。
かすかな声がする。
「・・・あなたは歩きながら探します。
・・・いつもと違うところはないか。
・・・いつもと違うところはないか」
いつもと違うところはないか。僕は客間の電気をつけた。
真ん中の畳の上に切り取られた手首がおちていた。
僕は息を飲んだ。
人間の右手首。切り口から血が滴って畳を黒く染めていた。
この部屋にいてはいけない。
僕は踵を返して部屋を飛び出した。
廊下を突っ切り、1階の居間に飛びこんだ。
ダイニングのテーブルの上に足首がころがっていた。
僕はあとずさる。
まずい。失敗だ。この霊は、やばい。
もう限界だ。僕は目を明けようとした。
開かなかった。僕は叫んだ。
「出してくれ!」
だがその声は誰もいない居間に響くだけだった。
僕は走った。家の勝手口に僕の靴があった。
履く余裕もなく、ドアをひねる。だが押そうが引こうが開かない。
「出してくれ!」
ドアを両手で激しく叩いた。
どこからともなくかすかな声がする。
しかしそれはもう聞き取れない。
僕は玄関の方へ走った。途中で何かにつまずいて転んだ。
痛い。痛い。本当に痛い。
つまづいたものをよく見ると、両手足のない人間の胴体だった。
玄関の扉の郵便受けがカタンと開いた。
何かが隙間からでてこようとしていた。
僕はここで死ぬ。そんな予感がした。
そのときチャイムの音が鳴った。
ピンポンピンポンピンポンピンポン
続いてガチャっという音とともに明るい声が聞こえた。
「おーっす! やってるか〜」
気がつくと僕は目を開いていた。
暗闇だ。だが、間違いなくここはkokoさんのマンションだ。
「おおい。ここか」
部屋のドアが開き、蛍光灯の眩しい光が射し込んできた。
kokoさんと、みかっちさんの顔も見えた。
「おっと邪魔したか〜? スマン、スマン」
助かった。安堵感で手が震えた。
光を背に扉の向こうにいる人が女神に見えた。
その時kokoさんが、邪魔したわと小さく呟いたのが聞こえた。
僕は慌ててkokoさんから手を離した。
僕は全身に嫌な汗をかいていた。
僕は後日、師匠の家で事の顛末を大いに語った。
しかしこの恐ろしい話を師匠はくすくす笑うのだ。
「そいつは見事にひっかかったな」
「なにがですか」僕はふくれた。
「それは催眠術さ」
「は?」
「その心理ゲームは本来そんな風に喋りつづけてイメージを誘導する
ことはない。いつもと違うところはないか。なんてな」
僕は納得がいかなかった。
しかし師匠は断言するのだ。
「タネをあかすと、俺が頼んだんだ。お前が最近調子に乗ってるんでな。
ちょっと脅かしてやれって」
「やっぱり知りあいだったんですか」
僕はゲンナリして臍のあたりから力が抜けた。
「しかしハンドルネーム『京介』で女の人だったとは。僕はてっきりkokoさん
の彼氏かと思いましたよ」
このつぶやきにも師匠は笑い出した。
「そりゃそうだ。kokoは俺の彼女だからな」
翌日サークルBOXに顔を出すと、師匠とkokoさんがいた。
「このあいだはごめんね。やりすぎた」
頭を下げるkokoさんの横で師匠はニヤニヤしていた。
「こいつ幽霊だからな。同じサークルでも初対面だったわけだ」
kokoさんは昼の陽の下にでてきても青白い顔をしていた。
「ま、お前も霊媒だの下らんこといって人をだますなよ。
俺が催眠術の触りを教えたのはそんなことのためじゃない」
kokoさんはへいへいと横柄に返事をして僕に向き直った。
「芳野 歩く といいます。よろしくね、後輩」
それ以来僕はこの人が苦手になった。
その後で師匠はこんなことをいった。
「しかし、手首だの胴体だのを見たってのはおかしいな。
いつもと違うところはないか、と言われてお前はそれを見たわけだ。
お前の中の幽霊のイメージはそれか?」
もちろんそんなことはない。
「なら、いずれそれを見るかもな」
「どういうことですか」
「ま、おいおい分るさ」
師匠は意味深に笑った。
|
- 不可解な記憶がある。
僕は小学生のころ団地に住んでいて、すぐ近くにあった田んぼが
休耕している季節にはそこでよく遊んでいた。
乾いてひび割れた地面からは雑草が顔を出していて、カエルを
を踏んづけてしまうこともあった。
独特の生臭いような空気を吸いながら駆けまわった。
僕の原風景だ。
仲良しだったケンちゃんと2人で、夕暮れのなか田んぼでボールを蹴り
あっていた時だった。
ケンちゃんがボールを蹴り返してこない。
おーい、ケンちゃん。
と呼んでもぼーとして突っ立っている。
「あれ」
ケンちゃんが僕の後ろを指差した。
ふり返ると真っ赤な夕焼けの向こうに巨大なキノコ曇が立っていた。
山のはるか彼方。けれど見上げるほど大きい。
僕は驚いてベソをかいた。ケンちゃんが言う。
「原爆がどこかに落ちたんだよ」
僕は逃げるように家に帰り、布団に頭を突っ込んで泣いた。
いま思い出すたび不思議な気持ちになる。
あれはなんだったのだろう。 |
だれか呼んだ? 小ネタでも話すべぇか。
大学1年の夏の始めごろ、当時俺の部屋にはクーラーはおろか扇風機もなくて
毎日が地獄だった。
そんな熱帯夜にある日電話が掛かった来た。
夜中の一時くらいで、誰だこんな時間に! と切れ気味で電話に出た。
すると電話口からはゴボゴボゴボ・・・という水のような音がする。
水の中で無理やりしゃべっているような感じだ。
混線かなにかで声が変になっているのかと思ったが、喋っているにしては間が
開きすぎているような気がする。
活字にしにくいが、あえて書くなら、
ゴボゴボ・・・ゴボ・・・シュー・・・・ゴボ・・・・シュー・・・シュー・・・ゴボ・・・・ゴボリ・・・
いつもならゾーっするところだが、その時は暑さでイライラしていて頭から湯気が出
ていたので
「うるせーな。誰じゃいコラ」と言ってしまった。
それでも電話は続き、ゴボゴボと気泡のような音が定期的に聞こえた。
俺も意地になって、「だれだだれだだれだだれだ」と繰り返していたが
10分ぐらい立っても一向に切れる気配がないので、いいかげん馬鹿らしくなって
こっちからぶち切った。
それから3ヶ月くらいたって、そんなことをすっかり忘れていたころに留守電に
あのゴボゴボゴボという音が入っていた。
録音時間いっぱいにゴボ・・・ゴボ・・・・シュー・・・・ゴボ・・・・
気味が悪かったので消そうかと思ったが、なんとなく友人たちの意見を聞きたくて
残していた。
それで3日くらいしてサークルの先輩が遊びに来ると言うので、そのゴボゴボ以外
の留守録を全部消して待っていた。
先輩は入ってくるなり、「スマン、このコーヒー飲んで」
自販機の缶コーヒーを買ってくるつもりが、なぜか『あったか〜い』の方を間違えて
買ってしまったらしい。まだ九月で残暑もきついころだ。
しかし例の留守電を聞かせると、先輩はホットコーヒーを握り締めてフーフー言いな
がら飲みはじめた。
先輩は異様に霊感が強く、俺が師匠と仰ぐ人なのだがその人がガタガタ震えている。
「もう一回まわしましょうか?」
と俺が電話に近づこうとすると「やめろ!」とすごまれた。
「これ、水の音に聞こえるのか?」
青い顔をしてそう聞かれた。
「え? 何か聞こえるんですか?」
「生霊だ。まとも聞いてると寿命縮むよ」
「今も来てる。首が」
俺には心当たりがあった。当時俺はある女性からストーキングまがいのことをされていて
相手にしないでいるとよく睡眠薬を飲んで死ぬ、みたいなこを言われていた。
「顔が見えるんですか?女じゃないですか?」
「そう。でも顔だけじゃない、首も。窓から首が伸びてる」
俺はぞっとした。
生霊は寝ている間本人も知らない内に首がのびて、愛憎募る相手の元へやってくると
聞いたことがあった。
「な、なんとかしてください」
俺が泣きつくと先輩は逃げ出しそうな引き腰でそわそわしながら
「とにかくあの電話は掛かってきてももう絶対に聞くな。本人が起きてる時にちゃんと話
しあうしかない」
そこまで言って天井あたりを見あげ、目を見張った。
「しかもただの眠りじゃない。これは・・・へたしたらこのまま死ぬぞ。見ろよ、首が
ちぎれそうだ」
俺には見えない。
引きとめたが先輩は帰ってしまったので、俺は泣く泣くストーキング女の家に向った。
以降のことはオカルトから逸脱するし、話したくないので割愛するが、結局俺は
それから丸二年ほどその女につきまとわれた。
正直ゴボゴボ電話より、睡眠薬自殺未遂の実況中継された時の電話ほうが怖かった。
|
ああ、夏が終わる前にすべての話を書いてしまいたい。
もう書かないといった気がするが、そうして終わりたい。
俺色々ヤバイことしたし、ヤバイ所にも行ったんだけど
幸い、とり憑かれるなんてことはなかった。
一度だけ除けば。
大学1年の秋ごろ、サークルの仲間とこっくりさんをやった。
俺の下宿で。それも本格的なやつ。
俺にはサークルの先輩でオカルト道の師匠がいたのだが、彼が知って
いたやり方で、半紙に墨であいうえおを書くんだけど、その墨に参加者
のツバをまぜる。
あと、鳥居のそばに置く酒も2日前から縄を張って清めたやつ。
いつもは軽い気持ちでやるんだけど、師匠が入るだけで雰囲気が
違ってみんな神妙になっていた。
始めて10分くらいしてなんの前触れもなく部屋の壁から白い服の男が
でてきた。
青白い顔をして無表情なんだけど、説明しにくいが「魚」のような
顔だった。
俺は固まったが、他の連中は気付いていない。
こっくりさん こっくりさん
と続けていると、男はこっちをじっと見ていたがやがてまた壁に
消えていった。
消える前にメガネをずらして見てみたが、輪郭はぼやけなかった。
なんでそうなるのか知らないが、この世のものでないものは
裸眼、コンタクト関係ない見え方をする。
内心ドキドキしながらもこっくりさんは無事終了し、解散になった。
帰る間際に師匠に「あれ、なんですか」と聞いた。
俺に見えて師匠が見えてないなんてことはなかったから。
しかし「わからん」の一言だった。
その次の日から奇妙なことが俺の部屋で起こりはじめた。
ラップ音くらいなら耐えられたんだけど、怖いのは夜
ゲームとかしていて何の気もなく振りかえるとベットの
毛布が人の形に盛りあがっていることが何度もあった。
それを見てビクッとすると、すぐにすぅっと毛布はもとに戻る。
ほかには耳鳴りがして窓の外を見ると、だいたいあの魚男がスっと
通るところだったりした。
見えるだけならまだいいが、毛布が実際に動いているのは精神的に
きつかった。
もうゲッソリして師匠に泣きついた。
しかし師匠がいうには、あれは人の霊じゃないと。
人の霊なら何がしたいのか、何を思っているのか大体わかるが
あれはわからない。
単純な動物霊とも違う。
一体なんなのか、正体というと変な感じだがとにかくまったく
何もわからないそうだ。
時々そういうものがいるそうだが、絶対に近寄りたくないという。
頼りにしている師匠がそう言うのである。
こっちは生きた心地がしなかった。
こっくりさんで呼んでしまったとしか考えられないから、またやれば
なんとかなるかと思ったけど、「それはやめとけ」と師匠。
結局半月ほど悩まされた。
時々見える魚男はうらめしい感じでもなく、しいて言えば興味
本意のような悪意を感じたが、それもどうだかわからない。
人型の毛布もきつかったが、夜締めたドアの鍵が朝になると開いて
いるのも勘弁して欲しかった。
夜中ふと目が覚めると、暗闇の中でドアノブを握っていたことがあった。
自分で開けていたらしい。
これはもうノイローゼだと思って、部屋を引っ越そうと考えてた
時、師匠がふらっとやってきた。
3日ほど泊めろという。
その間、なぜか一度も魚男は出ず怪現象もなかった。
帰るとき「たぶんもう出ない」といわれた。
そしてやたらと溜息をつく。体が重そうだった。
何がどうなってるんですか、と聞くとしぶしぶ教えてくれた。
「○○山の隠れ道祖神っての、あるだろ」
結構有名な心霊スポットだった。かなりヤバイところらしい。
うなずくと、
「あれ、ぶっこわしてきた」
絶句した。
もっとヤバイのが憑いてる人が来たから魚男は消えたらしい。
半分やけくそ気味でついでに俺の問題を解決してくれたという。
なんでそんなもの壊したのかは教えてくれなかった。
師匠は「まあこっちはなんとかする」と言って力なく笑った。
|
大学2年の夏休みに、知り合いの田舎へついて行った。
師匠と仰ぐオカルト好きの先輩のだ。
師匠はそこで何か薄気味の悪いものを探しているようだったが、俺は
特にすることがなくて、妙に居心地の悪い師匠の親戚の家にはあまり
居ず、毎日なにもない山の中でひたすら暇をつぶしていた。
4日目の夜は満月だった。
晩御飯を居候先で食べ終えた俺は、さっそくどこかに消えた師匠を
放っておいて、居づらいその家から散歩に出た。
特にあてもなく散策していると、ふと通りがかった場所でかすかな違
和感を覚えて立ち止まった。
やや奥まった山中とはいえ月明かりに照らされていて、昨日も一昨日
も通りがかった小さな沢なのだが・・・
枯れ沢だったはずが今は不思議なことにキラキラと光が揺れいてる。
近くに寄ってみると、確かに昨日まで枯れていた沢に水が湧いていて、
綺麗な月が水面に映っていた。
このところ雨も降っていないのになァ・・・と首をかしげながら居候先
の家に帰ると、師匠も帰ってきていた。
さっそくそのことを話すと、「それは月の湧く沢だよ」という。
どうやらこのあたりでは有名な沢で、普段は枯れているが満月の夜に
だけ、湧き水で溢れるのだという。
暗がりの中を、懐中電灯をしぼって俺たちは進んだ。
沢はそんなに遠くない。よそ者の二人がこんな時間にこそこそ出歩いて
いるのを見られたらますます居づらくなりそうだったが、幸い誰とも
すれ違わなかった。
沢に着くと俺はほっとした。
ひょっとすると、幻のように水が消えているのではないかという気が
していたのだ。
山の斜面に寄り添うような水面に満月がゆらゆらと揺れている。
師匠は沢の淵に屈みこんで、目を爛々とさせながら眼下の月を見ている。
俺は「潮汐力だよ」といった師匠の答えに抱いた、ひっかかりのことを
考えていた。
理科は苦手だったが、たしかにそんな力が存在することは知っている。
しかし・・・
潮汐力が最大になるのは満月の日だけだっただろうか?
おぼろげな記憶ではあるが、確か月の消えた「新月」の日にも潮汐力は
最大になるのではなかったか。
では、満月の日にだけ湧くというこの沢はいったい何だ?
師匠の目が爛々としている。
なにより師匠の目が、「潮汐力」という答えを否定しているようだった。
俺は得体の知れない寒気に襲われた。
チャポ という音を立てて、師匠が沢の水を掬っている。
飲む気だ。
師匠は掬い取った手の平に満月を見ただろうか。
一心不乱に水を飲みはじめた。何度も何度も手を差し入れて。
俺は立ち尽くしたままそれを見ている。
やがて信じられないものを俺は見て、ヘタヘタと座り込んだ。
気がつくと師匠の手が止まっていて、その下には水面が揺れている。
月が、もう映っていなかった。
消えた。
俺は逃げ出したくなる気持ちを抑え、この出来事に合理的な解釈を与え
ようとしていた。
『潮汐力だよ』
というそんな力強い言葉のような。
動けないでいると師匠が何事もなかったかのように歩み寄ってきて、
「もう月も飲んだし、帰ろう」といった。
その瞬間わかった。
へたりこんだまま空を見上げて、俺はバカバカしくなって笑った。
いつのまにか空は曇って、月は隠れていたのだ。
本当にバカバカしかった。
新月の謎さえ忘れていれば。
次の日、師匠があっさり教えてくれた。
「あのダムはね、30日ごとに試験放流をするんだ」
その周期と満月の周期とがたまたまかぶっているというのだ。
月の満ち欠けが一周するまでの期間を朔望月といい、平均するとおお
よそ29.53日。30日ごとの試験放流では一年間で6日ほどズレが
生じるはずだが、放流予定日が休日だった場合はその前日に前倒しする
ことになっており、その周期が朔望月に近づくのだという。
「でもぴったり満月の日にあの沢が湧くのはめずらしいらしいけどね」
力が抜けた。地下水の圧力変化の原因は潮汐力ですらなく、ただのダム
の放流だった。
ようするに担がれたわけだ。
しかし、あの夜起こったことの本当の意味を知った時にはもう、師匠は
いなかった。
数年後、師匠の謎の失踪のあとあの夜のことを思い出していて、まだ
ひとつだけ解けていない謎に気がついたのだ。
あの夜、俺と師匠は懐中電灯をしぼって沢に向かった。
月の湧くという沢に。
空はいつから曇っていたのか。
|
大学時代、よく散歩をした公園にはハトがたくさんいた。
舗装された道に、一体なにがそんなに落ちているのか、
やたら歩き回っては地面をくちばしでつついて行く。
なかでも、よく俺が腰掛けてぼーっとしていたベンチの
近くに、いつもハトが群れをなしている一角があった。
何羽ものハトがしきりに地面をつついては、何かをつい
ばんでいる。
(このベンチに座って、弁当の残りカスでも投げている
人でもいるんだろう)
と思っていた。
2回生の春。
サークルの新入生歓迎コンパを兼ね、その公園の芝生に
陣取って花見をした。
綺麗な桜が咲いていた。
別に変なサークルではなかったが、ひとりオカルトの神の
ような先輩がいて、俺は師匠と呼んで慕ったり見下したり
していた。
その師匠がめずらしく酔っ払って、ダウンしていた。
誰かがビール片手に
「最初に桜の下には死体が埋まってるって言ったのは、
誰なんだろうなあ」
と言った。
すると師匠がムクっと起き上がって、
「桜の下に埋まってる幸せなヤツばかりとは限るまい」
と、ろれつの回らない舌でまくしたてた。
すぐに他の先輩たちが師匠を取り押さえた。
暴走させると、新入生がヒクからだ。
俺は少し残念だった。
「ちょっと休ませてきますよ」
と言って、いつも座っているベンチまで連れて行き、横に
ならせた。
しばらくしてから、水を持って隣に腰掛けた。
「さっきはなにを言おうとしたんです?」
師匠は荒い息を吐きながら、
「そこ、ハトがいるだろ」
と指をさした。
ふと見ると、すでに日が落ちて暗い公園の中にハトらしい
影がうごめいていた。
一斉にハトたちは顔を上げて、小さなふたつの光がたくさん
こちらを見た。
「おまえに大事なことを教えてやろう」
酔っているせいか、師匠がいつもと違う口調で俺に話しか
けた。
思わず身構える。
「いや、前にも言ったかな・・・人間が死んだらどこへ行く
と思う?」
「はぁ? あの世ですか」
師匠は深いため息をついた。
「どこにも行けないんだよ。無くなるか、そこに在るかだ」
よくわからない。
師匠はいろいろなことを教えてくれはするが、こんな哲学的
なというか、宗教がかったことをいうのは珍しかった。
「だから、隣にいるんだ」
人間にとっての幽霊とか、そういうもののことを言っている
のだと気づくまで少し時間がかかった。
「そこでハトに食われてるヤツだって、無くなるまで在って、
それで、終わりだ」
え?
目をこすったが、なにも見えない。
「すごく弱いやつだ。もう消えかかってる。ハトはなにを
食ってるか分かってないけど、食われてる方は『食われた
ら、無くなる』って思ってる。だから消える」
「わかりません」
たいていの鳥はふつうにヒトの霊魂が見えるんだぜ、
と師匠はつぶやいた。
いつもハトが集まっていたところで、むかし人が死んだと
言うんだろうか。
「ほんの少し離れてるだけなのになあ」
ハトに食われるより、桜に食われた方がマシだ。
酒くさいため息をつきながらそう言ったきり、師匠は黙った。
芝生の向こうではバカ騒ぎが続いている。
「師匠は自分が死ぬときのことを考えたことがありますか」
いつも聞きたくて、なんとなく聞けなかったことを口にした。
「おんなじさ。とんでもない悪霊になって、無くなるまで
在って、それで、終わり」
ワンステップ多かったが、俺は流した。
|
子どものころ、バッタの首をもいだことがある。
もがれた首はキョロキョロと触覚を動かしてい
たが、胴体のほうもピョンピョンと跳び回り続
けた。
怖くなった俺は首を放り出して逃げだしてしま
った。
その記憶がある種のトラウマになっていたが、
大学時代にそのことを思い出すような出来事が
あった。
怖がりのくせに怖いもの見たさが高じて、よく
心霊スポットに行った。
俺にオカルトを手ほどきした先輩がいて、俺は
師匠と呼び、尊敬したり貶したりしていた。
大学1回生の秋ごろ、その師匠と相当やばいと
いう噂の廃屋に忍び込んだ時のこと。
もとは病院だったというそこには、夜中に誰もい
ないはずの廊下で足音が聞こえる、という逸話
があった。
その話を仕込んできた俺は、師匠が満足するに
違いないと、楽しみだった。
しかし
「誰もいないはずはないよ。聞いてる人がいる
んだから」
そんな森の中で木を切り倒す話のような揚足取り
をされて、少しムッとした。
しかるにカツーン、カツーンという音がほんとに
響き始めた時には、怖いというより「やった」
という感じだった。
師匠の霊感の強さはハンパではないので、「出る」
という噂の場所ならまず確実に出る。
それどころか火のない所にまで煙が立つほどだ。
「しっ」
息を潜めて師匠と俺は、多床室と思しき病室に身
を隠した。
真っ暗な廊下の奥から足音が均一なリズムで近づ
いてくる。
「こどもだ」
と師匠が囁いた。
歩幅で分かる。
と続ける。
誰もいないのに足音が聞こえる、なんていう怪奇
現象に会って、その足音から足の持ち主を推測
するなんていう発想は、さすがというべきか。
やがて、二人が隠れている病室の前を足音が。
足音だけが、通り過ぎた。
もちろん動くものの影も、気配さえもなかった。
ほんとだった。
膝はガクガク震えているが、乗り気でなかった
師匠に勝ったような気になって、嬉しかった。
ところが微かな月明かりを頼りに師匠の顔を覗
き込むと、蒼白になっている。
「なに、あれ」
俺は心臓が止まりそうになった。
師匠がビビッている。
はじめてみた。
俺がどんなヤバイ心霊スポットにでも行けるのは
横で師匠が泰然としてるからだ。
どんだけやばいんだよ!
俺は泣いた。
「逃げよう」
というので、一も二もなく逃げた。
廃屋から出るまで、足音がついて来てるような
気がして、生きた心地がしなかった。
ようやく外にでて、師匠の愛車に乗り込む。
「一体なんですか」
「わからない」
曰く、足音しか聞こえなかったと。
いや、もともとそういうスポットだからと言った
が、「自分に見えないはずはない」と言い張る
のだ。
あれだけはっきりした音で人間の知覚に働きかける
霊が、ほんとうに音だけで存在してるはずはないと
いうのである。
俺は、
(この人そこまで自分の霊感を自負していたのか)
という驚きがあった。
半年ほどたって、師匠が言った。
「あの廃病院の足音、覚えてる?」
興奮しているようだ。
「謎が解けたよ。たぶん」
ずっと気になっていて、少しづつあの出来事の
背景を調べていたらしい。
「幻肢だと思う」と言う。
あの病院に昔、両足を切断するような事故にあ
った女の子が入院していたらしい。
その子は幻肢症状をずっと訴えていたそうだ。
なくなったはずの足が痒い、とかいうあれだ。
その幻の足が、今もあの病院にさまよっていると
いうのだ。
俺は首をもがれたバッタを思い出した。
「こんなの僕もはじめてだ。オカルトは奥が深い」
師匠はやけに嬉しそうだった。
俺は信じられない気分だったが、
「その子はその後どうなったんです?」と聞くと、
師匠は冗談のような口調で冗談としか思えないこと
を言った。
「昨日殺してきた」
|
大学2回生の夏休み。
オカルトマニアの先輩に
「面白いものがあるから、おいで」
といわれた。
師匠と仰ぐその人物にそんなことを言われたら
行かざるを得ない。
ノコノコと家に向かった。
師匠の下宿はぼろいアパートの一階で、あいかわ
らず鍵をかけていないドアをノックして入ると、
畳の上に座り込んでなにかをこねくり回している。
トイレットペーパーくらいの大きさの円筒形。
金属製の箱のようだ。表面に錆が浮いている。
「その箱が面白いんですか」
と聞くと、
「開けたら死ぬらしい」
この人はいっぺん死なないとわからないと思った。
「開けるんですか」
「開けたい。けど開かない」
見ると箱からは小さなボタンのようなでっぱりが全面
に出ていて、円筒の上部には鍵穴のようなものもある。
「ボタンを正しい順序で押し込まないとダメらしい」
師匠はそう言って夢中で箱と格闘していた。
「開けたら、どうして死ぬんですか」
「さあ」
「どこで手に入れたんですか」
「××市の骨董品屋」
「開けたいんですか」
「開けたい。けど開かない」
死ぬトコ見てみてェ。
俺はパズルの類は好きなので、やってみたかったが我慢した。
「ボタンは50個ある。何個連続で正しく押さないといけな
いのかわからないけど、音聞いてる限りだいぶ正解に近づい
てる気がする」
「その鍵穴はなんですか」
「そこなんだよ」
師匠はため息をついた。
2重のロックになっていて、最終的には鍵がないと開かないらしい。
「ないんですか」
「いや。セットで手に入れたよ」
でも落とした。
と悲しそうに言う。
「どこに」
と聞くと
「部屋」
探せばいいでしょ。こんなクソ狭い部屋。
師匠は首を振った。
「拾っちゃったんだよ」
「ハァ?」
意味がわからない。
「だから、ポケットに入れてたのを部屋のどっかに落としてさ。
まあいいや、明日探そ、と寝たわけ。その夜、夢の中で玄関
に落ちてるのを見つけてさ、拾ったの」
バカかこの人は。
「それで目が覚めて、正夢かもと思うわけ。で、玄関を探した
けど、ない。あれー?と思って部屋中探したけど出てこない。
困ってたら、その日の晩、夢見てたら出てきたのよ。
ポケットの中から」
ちょっとゾクっとした。
なんだか方向性が怪しくなってきた。
「その次の朝、目が覚めてからポケットを探っても、もちろん鍵
なんか入ってない。そこで思った。
『夢の中で拾ってしまうんじゃなかった』」
やっぱこぇぇよこの人。
「それから、その鍵が僕の夢の中から出てきてくれない。いつも
夢のポケットの中に入ってる。夢の中で、鍵を机の引き出しに
しまっておいて、目が覚めてから机の引き出しを開けてみたこ
ともあるんだけど、やっぱり入ってない。どうしようもなくて、
ちょっと困ってる」
信じられない話をしている。
落とした鍵を夢の中で拾ってしまったから、現実から鍵が消滅して
夢の中にしか存在しなくなったというのか。
そして夢の中から現実へ鍵を戻す方法を、模索してると言うのだ。
どう考えても、キチ○ガイっぽい話だが、師匠が言うとあながち
そう思えないから怖い。
「あー! また失敗」
と言って師匠は箱を床に置いた。
いい感じだった音がもとに戻ったらしい。
「ボタンのパズルを解いても、鍵がないと開かないんでしょ」
と突っ込むと、師匠は気味悪く笑った。
「ところが、わざわざ今日呼んだのは、開ける気満々だからだよ」
なにやら悪寒がして、俺は少し後ずさった。
「どうしても鍵が夢から出てこないなら、思ったんだよ。
夢の中でコレ、開けちまえって」
なに?
なに?
なにを言ってるのこの人。
「でさ、あとはパズルさえ解ければ開くわけよ」
ちょっと、ちょっと待って。
青ざめる俺をよそに、師匠はジーパンのポケットを探り始めた。
そして・・・
「この、鍵があれば」
その手には錆ついた灰色の鍵が握られていた。
その瞬間、硬質な金属が砕けるような物凄い音がした。
床抜け、世界が暗転して、ワケがわからなくなった。
誰かに肩を揺すられて、光が戻った。
師匠だった。
「冗談、冗談」
俺はまだ頭がボーッとしていた。
師匠の手にはまだ鍵が握られている。
「今ので気を失うなんて・・・」
と、俺の脇を抱えて起こし、
「さすがだ」
と言った。
やたら嬉しそうだ。
「さっきの鍵の意味が一瞬でわかったんだから、凄いよ。
もっと暗示に掛かりやすい人なら、僕の目の前で消滅
してくれたかも知れない」
・・・
俺はなにも言えなかった。
鍵を夢で拾った云々はウソだったらしい。
その日は俺をからかっただけで、結局師匠は箱のパズルを
解けなかった。
その箱がどうなったか、その後は知らない。
|
師匠は麻雀が弱い。
もちろん麻雀の師匠ではない。
霊感が異常に強い大学の先輩で、オカルト好きの俺は
彼と、傍から見ると気色悪いであろう師弟関係を結ん
でいた。
その師匠であるが、2、3回手合わせしただけでもそ
の実力の程は知れた。
俺は高校時代から友人連中とバカみたいに打ってたの
で、大学デビュー組とは一味違う新入生としてサーク
ルの先輩たちからウザがられていた。
師匠に勝てる部分があったことが嬉しくて、よく麻雀
に誘ったが、あまり乗ってきてくれなかった。
弱味を見せたくないらしい。
1回生の夏ごろ、サークルBOXで師匠と同じ院生の
先輩とふたりになった。
なんとなく師匠の話しになって、俺が師匠の麻雀の弱さ
の話をすると、先輩は「麻雀は詳しくないんだけど」
と前置きして、意外なことを話し始めた。
なんでも、その昔師匠が大学に入ったばかりのころ、
健康的な男子学生のご多聞に漏れず麻雀に手を出した
のであるが、サークル麻雀のデビュー戦で役満(麻雀で
最高得点の役)をあがってしまったのだそうだ。
それからもたびたび師匠は役満をあがり、麻雀仲間を
ビビらせたという。
「ぼくはそういう話を聞くだけだったから、へーと思っ
てたけど、そうか。弱かったのかアイツは」
いますよ、役満ばかり狙ってる人。
役満をあがることは人より多くても、たいてい弱いんで
すよ。
俺がそんなことを言うと、
「なんでも、出したら死ぬ役満を出しまくってたらしいよ」
と先輩は言った。
「え?」
頭に九連宝燈という役が浮かぶ。
一つの色で1112345678999みたいな形を
作ってあがる、麻雀で最高に美しいと言われる役だ。
それは作る難しさもさることながら、「出したら死ぬ」
という麻雀打ちに伝わる伝説がある、曰く付きの役満だ。
もちろん僕も出したことはおろか、拝んだこともない。
ちょっと、ゾクッとした。
「麻雀牌をなんどか燃やしたりもしたらしい」
確かに九連宝燈を出した牌は燃やして、もう使ってはい
けないとも言われる。
俺は得体の知れない師匠の側面を覗いた気がして、怯ん
だが、同時にピーンと来るものもあった。
役満をあがることは人より多くても、たいてい弱い・・・
さっきの自分のセリフだ。
つまり、師匠はデビュー戦でたまたまあがってしまった
九連宝燈に味をしめて、それからもひたすら九連宝燈を
狙い続けたのだ。
めったにあがれる役ではないから、普段は負け続け。
しかし極々まれに成功してしまい、そのたび牌が燃やされ
る羽目になるわけだ。
俺はその推理を先輩に話した。
「出したら死ぬなんて、あの人の好きそうな話でしょ」
しかし、俺の話を聞いていた先輩は首をかしげた。
「でもなあ・・・チューレンポウトウなんていう名前だ
ったかなあ、その役満」
そして、うーんと唸る。
「なんかこう、一撃必殺みたいなノリの、天誅みたいな」
そこまで言って、先輩は手の平を打った。
「思い出した。テンホーだ」
天和。
俺は固まった。
言われてみればたしかに天和にも、出せば死ぬという言い
伝えがある。
しかし、狙えば近づくことが出来る九連宝燈とは違い、
天和は最初の牌が配られた時点であがっている、という
完璧に偶然に支配される役満だ。
狙わなくても毎回等しくチャンスがあるにも関わらず、
出せば死ぬと言われるほどの役だ。その困難さは九連宝燈
にも勝る。
その天和を出しまくっていた・・・
俺は師匠の底知れなさを垣間見た気がして、背筋が震えた。
「出したら死ぬなんて、あいつが好きそうな話だな」
先輩は無邪気に笑うが、俺は笑えなかった。
それから一度も師匠とは麻雀を打たなかった。
|
別の世界へのドアを持っている人は、確かにいると思う。
日常の隣で、そういう人が息づいているのを僕らは大抵
知らずに生きているし、生きていける。
しかしふとしたことで、そんな人に触れたときに、いつ
もの日常はあっけなく変容していく。
僕にとって、その日常の隣のドアを開けてくれる人は二人
いた。それだけのことだったのだろう。
大学1回生ころ、地元系のネット掲示板のオカルトフォー
ラムに出入りしていた。
そこで知り合った人々は、いわば、なんちゃってオカルト
マニアであり、高校までの僕ならば素直に関心していただ
ろうけれど、大学に入って早々に、師匠と仰ぐべき強烈な
人物に会ってしまっていたので、物足りない部分があった。
しかし、降霊実験などを好んでやっている黒魔術系のフリ
ークたちに混じって遊んでいると、1人興味深い人物に出
会った。
「京介」というハンドルネームの女性で、年歳は僕より
2,3歳上だったと思う。
じめじめした印象のある黒魔術系のグループにいるわりに
はカラっとした人で、背が高くやたら男前だった。そのせ
いかオフで会ってもキョースケ、キョースケと呼ばれてい
て、本人もそれが気にいっているようだった。
あるオフの席で「夢」の話になった。予知夢だとか、そう
いう話がみんな好きなので、盛り上がっていたが京介さん
だけ黙ってビールを飲んでいる。
僕が、どうしたんですか、と聞くと一言
「私は夢をみない」
機嫌を損ねそうな気がしてそれ以上突っ込まなかったが、
その一言がずっと気になっていた。
大学生になってはじめての夏休みに入り、僕は水を得た魚
のように心霊スポットめぐりなど、オカルト三昧の生活を
送っていた。
そんなある日、目を覚ますと見知らぬ部屋にいたのだった。
暗闇の中で、寝ていたソファーから身体を起こす。
服がアルコール臭い。酔いつぶれて寝てしまったらしい。
回転の遅い頭で昨日のことを思い出そうと、あたりを見回す。
厚手のカーテンから幽かな月の光が射し、その中で一瞬、
闇に煌くものがあった。
水槽と思しき輪郭のなかに、にび色の鱗が閃いて、そして
闇の奥へと消えていった。
なんだかエロティックに感じて妙な興奮を覚えたが、すぐ
に睡魔が襲ってきてそのまま倒れて寝てしまった。
次に目を覚ましたときは、カーテンから朝の光が射しこん
でいた。
「起きろ」
目の前に京介さんの顔があって、思わず「ええ!?」
と間抜けな声をあげてしまった。
「そんなに不満か」
京介さんは状況を把握しているようで、教えてくれた。
どうやら、昨夜のオフでの宴会のあと、完全に酔いつぶ
れた俺をどうするか、残された女性陣たちで協議した結果、
近くに住んでいた京介さんが自分のマンションまで引きず
って来たらしい。
申し訳なくて、途中から正座をして聞いた。
まあ気にするなと言って、京介さんはコーヒーを淹れてく
れた。
その時、部屋の隅に昨日の夜に見た水槽があるのに気がつ
いたが、不思議なことに中は水しか入っていない。
「夜は魚がいたように思ったんですが」
それを聞いたとき、京介さんは目を見開いた。
「見えたのか」
と、身を乗り出す。
頷くと、「そうか」と言って京介さんは奇妙な話を始め
たのだった。
京介さんが女子高に通っていたころ、学校で黒魔術まが
いのゲームが流行ったという。占いが主だったが、一部
のグループがそれをエスカレートさせ、怪我人が出るよ
うなことまでしていたらしい。京介さんはそのグループ
のリーダーと親しく、何度か秘密の会合に参加していた。
ある時、そのリーダーが真顔で「悪魔を呼ぼうと思うのよ」
と言ったという。
その名前のない悪魔は、呼び出した人間の「あるもの」
を食べるかわりに、災厄を招くのだという。
「願いを叶えてくれるんじゃないんですか?」
思わず口をはさんだ。普通はそうだろう。しかし、
「だからこそやってみたかった」と京介さんは言う。
京介さんを召喚者として、その儀式が行われた。
その最中に京介さんとリーダーを除いて、全員が癲癇症状
を起こし、その黒魔術サークルは以後活動しなくなったそ
うだ。
「出たんですか。悪魔は」
京介さんは一瞬目を彷徨わせて、
「あれは、なんなんだろうな」と言って、それきり黙った。
オカルト好きの僕でも、悪魔なんて持ち出されるとちょっ
と引く部分もあったが、ようは「それをなんと呼ぶか」
なのだということをオカルト三昧の生活の中に学んでいた
ので、笑い飛ばすことはなかった。
「夢を食べるんですね、そいつは」
あの気になっていた一言の、意味とつながった。
しかし京介さんは首を振った。
「悪夢を食べるんだ」
その言葉を聞いて、背筋に虫が這うような気持ち悪さに襲
われる。
京介さんはたしかに「私は夢をみない」と言った。
なのにその悪魔は、悪夢しか食べない・・・
その意味を考えて、ぞっとする。
京介さんは、眠ると完全に意識が断絶したまま次の朝を迎
えるのだという。
いつも目が覚めると、どこか身体の一部が失われたような
気分になる・・・
「その水槽にいた魚はなんですか」
「わからない。私は見たことはないから。たぶん、私の
悪夢を食べているモノか、それとも・・・」
私の悪夢そのものなのだろう。
そう言って笑うのだった。
京介さんが眠っている間にしか現れず、しかもそれが
見えた人間は今まで二人しかいなかったそうだ。
「その水槽のあるこの部屋でしか、私は眠れない」
どんな時でも部屋に帰って寝るという。
旅行とか、どうしても泊まらないといけない時もあるでしょ
う? と問うと
「そんな時は寝ない」
とあっさり答えた。
たしかに、飲み会の席でもつぶれたところをみたことがない。
そんなに悪夢をみるのが怖いんですか、と聞こうとしたが、
止めた。
たぶん、悪夢を食べるという悪魔が招いた災厄こそ、その悪
夢なのだろうから。
僕はこの話を丸々信じたわけではない。京介さんのただの思
い込みだと笑う自分もいる。
ただ昨日の夜の、暗闇の中で閃いた鱗と、何事もないように
僕の目の前でコーヒーを飲む人の、強い目の光が、僕の日常の
その隣へと通じるドアを、開けてしまう気がするのだった。
「魚も夢をみるだろうか」
ふいに京介さんはつぶやいたけれど、僕はなにも言わなかった。
|
師匠は将棋が得意だ。
もちろん将棋の師匠ではない。大学の先輩で、オカルト
マニアの変人である。俺もまた、オカルトが好きだった
ので、師匠師匠と呼んでつきまとっていた。
大学1回生の秋に、師匠が将棋を指せるのを知って勝負
を挑んだ。俺も多少心得があったから。しかし結果は
惨敗。角落ち(ハンデの一種)でも相手にならなかった。
1週間後、パソコンの将棋ソフトをやり込んでカンを取
り戻した俺は、再挑戦のために師匠の下宿へ乗り込んだ。
結果、多少善戦した感はあるが、やはり角落ちで蹴散ら
されてしまった。
感想戦の最中に、師匠がぽつりと言った。
「僕は亡霊と指したことがある」
いつもの怪談よりなんだか楽しそうな気がして、身を乗
り出した。
「手紙将棋を知ってるか」
と問われて頷く。
将棋は普通長くても数時間で決着がつく。1手30秒
とかの早指しなら数十分で終わる。ところが手紙将棋
というのは、盤の前で向かい合わずに、お互い次の手
を手紙で書いてやり取りするという、なんとも気の長
い将棋だ。
風流すぎて若者には理解出来ない世界である。
ところが師匠の祖父はその手紙将棋を、夏至と冬至だ
けというサイクルでしていたそうだ。
夏至に次の手が届き、冬至に返し手を送る。
年に2手しか進まない。将棋は1勝負に100手程度
かかるので、終わるまでに50年はかかる計算になる。
「死んじゃいますよ」
師匠は頷いて、祖父は5年前に死んだと言った。
戦時中のことだ。
前線に出た祖父は娯楽のない生活のなかで、小隊で将棋
を指せるただひとりの戦友と、紙で作ったささやかな将
棋盤と駒で、あきることなく将棋をしていたという。
その戦友が負傷をして、本土に帰されることになった
とき、二人は住所を教えあい、ひと時の友情の証しに
戦争が終われば手紙で将棋をしようと誓い合ったそうだ。
戦友は北海道出身で、住むところは大きく隔たってい
た。
戦争が終わり、復員した祖父は約束どおり冬至に手紙
を出した。『2六歩』とだけ書いて。
夏至に『3四歩』とだけ書いた無骨な手紙が届いたと
き、祖父は泣いたという。
それ以来、年に2手だけという将棋は続き、祖父は夏
至に届いた手への返し手を半年かけて考え、冬至に出
した手にどんな手を返してくるか、半年かけて予想す
るということを、それは楽しそうにしていたそうだ。
5年前にその祖父が死んだとき、将棋は100手に近
づいていたが、まだ勝負はついていなかった。
師匠は、祖父から将棋を学んでいたので、ここでバカ
正直な年寄りたちの、生涯をかけた遊びが途切れるこ
とを残念に思ったという。
手紙が届かなくなったら、どんな思いをするだろう。
祖父の戦友だったという将棋相手に連絡を取ろうかと
も考えた。それでもやはり悲しむに違いない。ならば
いっそ自分が祖父のふりをして次の手を指そうと、考
えたのだそうだ。
宛名は少し前から家の者に書かせるようになっていた
ので、師匠は祖父の筆跡を真似て『2四銀』と書くだ
けでよかった。
応酬はついに100手を超え、勝負が見えてきた。
「どちらが優勢ですか」
俺が問うと師匠は、複雑な表情でぽつりと言った。
「あと17手で詰む」
こちらの勝ちなのだそうだ。
2年半前から詰みが見えたのだが、それでも相手は
最善手を指してくる。
華を持たせてやろうかとも考えたが、向こうが詰みに
気づいてないはずはない。
それでも投了せずに続けているのは、この遊びが途中
で投げ出していいような遊びではない、という証しの
ような気がして、胸がつまる思いがしたという。
「これがその棋譜」
と、師匠が将棋盤に初手から示してくれた。
2六歩、3四歩、7六歩・・・
矢倉に棒銀という古くさい戦法で始まった将棋は、
1手1手のあいだに長い時の流れを確かに感じさせた。
俺も将棋指しの端くれだ。
今でははっきり悪いとされ、指されなくなった手が
迷いなく指され、十数手後にそれをカバーするような
新しい手が指される。戦後、進歩を遂げた将棋の歴史
を見ているような気がした。
7四歩突き、同銀、6七馬・・・
局面は終盤へと移り、勝負は白熱して行った。
「ここで僕に代わり、2四銀とする」
師匠はそこで一瞬手を止め、また同馬とした。
次の桂跳ねで、細く長い詰みへの道が見えたという。
難しい局面で俺にはさっぱりわからない。
「次の相手の1手が投了ではなく、これ以上無いほど
最善で、そして助からない1手だったとき、僕は相手
のことを知りたいと思った」
祖父と半世紀にわたって、たった1局の将棋を指して
きた友だちとは、どんな人だろう。
思いもかけない師匠の話に俺は引き込まれていた。
不謹慎な怪談と、傍若無人な行動こそ師匠の人となり
だったからだ。
経験上、その話にはたいてい嫌なオチが待っているこ
とも忘れて・・・
「住所も名前も分かっているし、調べるのは簡単だった」
俺が想像していたのは、80歳を過ぎた老人が古い家
で旧友からの手紙を心待ちにしている図だった。
ところが、師匠は言うのである。
「もう死んでいた」
ちょっと衝撃を受けて、そしてすぐに胸に来るものが
あった。
師匠が、相手のことを思って祖父の死を隠したように、
相手側もまた師匠の祖父のことを思って死を隠したのだ。
いわば優しい亡霊同士が将棋を続けていたのだった。
しかし師匠は首を振るのである。
「ちょっと違う」
少し、ドキドキした。
「死んだのは1945年2月。戦場で負った傷が悪化し、
日本に帰る船上で亡くなったそうだ」
びくっとする。
俄然グロテスクな話になって行きそうで。
では、師匠の祖父と手紙将棋をしていたのは一体何だ?
『僕は亡霊と指したことがある』という師匠の一言が頭
を回る。
師匠は青くなった俺を見て笑い、心配するなと言った。
「その後、向こうの家と連絡をとった」
こちらのすべてを明らかにしたそうだ。すると向こうの
家族から長い書簡がとどいたという。
その内容は以下のようなものだった。
祖父の戦友は、船上で死ぬ間際に家族に宛てた手紙を残
した。その中にこんな下りがあった。
『私はもう死ぬが、それと知らずに私へ手紙を書いてく
る人間がいるだろう。その中に将棋の手が書かれた間抜
けな手紙があったなら、どうか私の死を知らせないでや
ってほしい。そして出来得れば、私の名前で応答をして
ほしい。私と将棋をするのをなにより楽しみにしている、
大バカで気持ちのいいやつなのだ』
師匠は語りながら、盤面をすすめた。
4一角
3二香
同銀成らず
同金
その同金を角が取って成ったとき、涙が出た。
師匠に泣かされたことは何度もあるが、こういうのは初
めてだった。
「あと17手、年寄りどもの供養のつもりで指すことに
してる」
師匠は指を駒から離して、ここまで、と言った。
|
大学1回生の夏ごろ。
京介さんというオカルト系のネット仲間の先輩に不思
議な話を聞いた。
市内のある女子高の敷地に夜中、一箇所だけ狭い範囲
に雨が降ることがあるという。
京介さんは地元民で、その女子高の卒業生だった。
「京介」はハンドルネームで、俺よりも背が高いが、
れっきとした女性だ。
「うそだー」
と言う俺を睨んで、じゃあ来いよ、と連れて行かれた。
真夜中に女子高に潜入するとは、さすがに覚悟がいった
が、建物の中に入るわけじゃなかったことと、セキュリ
ティーが甘いという京介さんの言い分を信じてついてい
った。
場所は校舎の影になっているところで、もとは焼却炉が
あったらしいが、今は近寄る人もあまりいないという。
「どうして雨が降るんですか」
と声をひそめて聞くと、
「むかし校舎の屋上から、ここへ飛び降りた生徒がいた
んだと。その時飛び散って地面に浸み込んだ血を洗う
ために雨が降るんだとか]
「いわゆる七不思議ですよね。ウソくせー」
京介さんはムッとして、足を止めた。
「ついたぞ。そこだ」
校舎の壁と、敷地を囲むブロック塀のあいだの寂しげな
一角だった。
暗くてよく見えない。
近づいていった京介さんが「おっ」と声をあげた。
「見ろ。地面が濡れてる」
僕も触ってみるが、たしかに1メートル四方くらいの範囲
で湿っている。
空を見上げたが、月が中天に登り、雲は出ていない。
「雨が降った跡だ」
京介さんの言葉に、釈然としないものを感じる。
「ほんとに雨ですか? 誰かが水を撒いたんじゃないですか」
「どうしてこんなところに」
首をひねるが、思いつかない。
周りを見渡しても、なにもない。敷地の隅で、とくにここ
に用があるとは思えない。
「その噂を作るための、イタズラとか」
だいたい、そんな狭い範囲で雨が降るはずがない。
「私が1年の時、3年の先輩に聞いたんだ
『1年の時、3年の先輩に聞いた』って」
つまりずっと前からある噂だという。
目をつぶって、ここに細い細い雨が降ることを想像して
みる。
月のまひるの空から地上のただ一点を目がけて降る雨。
怖いというより、幻想的で、やはり現実感がない。
「長い期間続いているということは、つまり犯人は生徒
ではなく、教員ということじゃないですか」
「どうしても人為的にしたいらしいな」
「だって、降ってるとこを見せられるならまだしも、これ
じゃあ・・・ たとえば残業中の先生が夜食のラーメン
に使ったお湯の残りを窓からザーッと」
そう言いながら上を見上げると、黒々とした校舎の壁は
のっぺりして、窓一つないことに気づく。
校舎の中でも端っこで、窓がない区画らしい。
雨。雨。雨。
ぶつぶつとつぶやく。
どうしても謎を解きたい。
降ってくる水。降ってくる水。
その地面の濡れた部分は校舎の壁から1メートルくらい
しか離れていない。
また見上げる。
やはり校舎のどこかから落ちてくる、そんな気がする。
「あの上は屋上ですか」
「そうだけど。だからって誰が水を撒いてるってんだ」
目を凝らすと、屋上の縁は落下防止の手すりのようなもの
で囲まれている。
さらに見ると、一箇所、その手すりが切れている
部分がある。この真上だ。
「ああ、あそこだけ何でか昔から手すりがない。だからそこ
から飛び降りたってハナシ」
それを聞いて、ピーンとくるものがあった。
「屋上は掃除をしてますか?」
「掃除?いや、してたかなあ。つるつるした床でいつも結構
きれいだったイメージはあるけど」
俺は心でガッツポーズをする。
「屋上の掃除をした記憶がないのは、業者に委託していた
からじゃないですか」
何年にも渡って月に1回くらいの頻度で、放課後、生徒たち
が帰った後に派遣される掃除夫。床掃除に使った水を、不精
をして屋上から捨てようとする。自然、身を乗り出さずにす
むように、手すりがないところから・・・
「次の日濡れた地面を見て噂好きの女子高生が言うんですよ。
ここにだけ雨が降ってるって」
僕は自分の推理に自信があった。
幽霊の正体みたり枯れ尾花。
「お前、オカルト好きのくせに夢がないやつだな」
なんとでも言え。
「でも、その結論は間違ってる」
京介さんはささやくような声で言った。
「水で濡れた地面を見て、小さな範囲に降る雨の噂が立った、
という前提がそもそも違う」
どういうことだろう。
京介さんは真顔で、
「だって、降ってるところ、見たし」
僕の脳の回転は止まった。
先に言って欲しかった。
「そんな噂があったら、行くわけよ。オカルト少女としては」
高校2年のとき、こんな風に夜中に忍び込んだそうだ。
そして目の前で滝のように降る雨を見たという。
水道水の匂いならわかるよ、と京介さんは言った。
俺は膝をガクガクいわせながら、
「血なんかもう、流れきってるでしょうに」
「じゃあ、どうして雨は降ると思う」
わからない。
京介さんは首をかしげるように笑い、
「洗っても洗っても落ちない、血の感覚って男にはわかんな
いだろうなあ」
その噂の子はレイプされたから、自分を消したかったんだよ。
僕の目を見つめて、そう言うのだった。
|
大学1回生の冬。
大学生になってからの1年弱、大学の先輩であり、オ
カルト道の師匠でもある人と様々な心霊スポットへ足
を踏み入れた俺だったが、さすがに寒くなってくると
出不精になってくる。
正月休みにめずらしく師匠が俺の下宿に遊びに来た。
とくにすることもないので、コタツにもぐりこんで俺
はゲームボーイを、師匠はテレビをぼーっと見ていた。
ふと、師匠が「あれ?」
と言うので顔を向けると、テレビにはダイバーによる
どこかの海の海底探査の様子が映っていた。
「この石像って、あ、消えた」
すぐに画面が切り替わったが、一瞬だけ見えた。
地中海のエジプト沖で、海底にヘレニズム期の遺跡が
発見されたと、アナウンサーが報じていた。
海底に沈んだ石造りの古代の建造物が、ダイバーの水中
カメラに映し出されている。
その映像の中に、崩れた石柱の下敷きになっている石像
の姿があったのだ。
なにかの神様だろうそれは、泥の舞う海の底で苦悶の表
情としか思えない顔をしていた。
最初からそんな表情の石像だったとは思えない、不気味
な迫力があった。
何ごともなく、番組は次のニュースへ移る。
「こんなことって、あるんですかね」
と言う俺に、師匠は難しい顔をして話しはじめた。
「廃仏毀釈って知ってる?」
師匠の専攻は仏教美術だ。日本で似たような例を知って
いるという。
江戸から明治に入り、神仏習合の時代から仏教にとって
は受難といえる神道一党の時代へ変化した時があった。
多くの寺院が打ち壊され、仏具や仏像が焼かれ、また神
社でも仏教色の強かったところでは、多くの仏像が収め
られていたが、それらもほとんどが処分された。
「中でも密教に対する弾圧は凄まじかった」
吉野の金峰山寺は破壊され、周辺の寺院も次々と襲われ
たが、その寺の一つで不思議なことがあったという。
僧侶が神官の一党に襲われ、不動明王など密教系の仏像
はすべて寺の庭に埋められて、のちに廃寺とされた。
弾圧の熱が収まりはじめたころ、貴重な仏像が坑された
という話を聞きつけて、近隣の山師的な男がそれを掘り
起こそうとした。
ところが土の中から出てきた仏像は、すべて憤怒の顔を
していたという。
元から憤怒の表情の不動明王はともかく、柔和なはずの
他の仏像までもことごとく、地獄の鬼もかほどではない
という凄まじい顔になっていたそうだ。
その怒りに畏れた男は、掘り出した仏像に火をかけた。
木製の仏像は6日間(!)ものあいだ燃え続け、その間
「おーんおーん」という唸り声のような音を放ち続けた
という。
あまりに凄い話に俺は、気がつくと正座していた。
「何年かまえ、人間国宝にもなっている仏師が外国メディ
アのインタビューを受けた記事を読んだことがある。
記者が、どうしてこんなに深みのあるアルケイックス
マイルを表現できるのでしょうかと聞くと、仏師はこう
答えた。
『彫るのではない。わらうんだ』
これを聞いたときは痺れたねぇ・・・」
めずらしく師匠が他人を褒めている。
俺は命を持たない像が、感情をあらわすということもあ
るかも知れない、と思い始めた。
「そうそう、僕が以前、多少心得のある催眠術の技術を
使って面白いことをしたことがある」
なにを言い出したのか、ちょっと不安になった。
「普通の胸像にね、ささやいたんだ。
『お前は石にされた人間だよ』」
怖っ
なんてことを考えるんだこの人は。
そしてどうなったのか、あえて聞かなかった。
|
大学1回生のとき、オカルト道を突き進んでいた俺には師匠
がいた。ただの怖い物好きとは一線を画す、得体の知れない
雰囲気を持った男だった。
その師匠とは別に、自分を別の世界に触れさせてくれる人が
いた。オカルト系のネット仲間で、オフでも会う仲の「京介」
さんといいう女性だ。
どちらも俺とは住む世界が違うように思える、凄い人だった。
師匠のカノジョも同じネット仲間だったので、その彼女を通
じて面識があるのかと思っていたが、京介さんは師匠を知ら
ないという。
俺はその二人を会わせたらどういう化学反応を起こすのか、
見てみたかった。
そこで、あるとき師匠に京介さんのことを話してみた。
「会ってみませんか」と。
師匠は腕組みをしたまま唸ったあとで、
「最近付き合いが悪いと思ってたら、浮気してたのか」
そんな嫉妬されても困る。
が、黒魔術に首をつっこむとろくなことがないよ、と諭され
た。
ネットでは黒魔術系のフォーラムにいたのだった。
どんなことをしてるのか、と問われて、あんまり黒魔術っぽい
ことはしてませんが、と答えていると、あるエピソードに食い
ついてきた。
京介さんの母校である地元の女子高に潜入したときの出来事だ
ったが、その女子高の名前に反応したのだった。
「待った、その女の名前は? 京子とか、ちひろとかいう名前
じゃない?」
そういえば京介というハンドルネームしか知らない。
話を聞くと、師匠が大学に入ったばかりのころ、同じ市内にあ
る女子高校で新聞沙汰になる猟奇的な事件があったそうだ。
女子生徒が重度の貧血で救急車で搬送されたのであるが、「同
級生に血を吸われた」と証言して、地元の新聞がそれに食いつ
き、ちょっとした騒ぎになった。
その後、警察は自殺未遂と発表し、事件自体は尻切れのような
形で沈静化した。しかしそのあと、二人の女子生徒が密かに停
学処分になっているという。
「当時、僕ら地元のオカルトマニアにはこの事件はホットだっ
た。○○高のヴァンパイアってね。たしか校内で流行ってた
占いの秘密サークルがからんでて、停学になったのはそのリ
ーダー格の二人。どっかで得た情報ではそんな名前だった」
吸血鬼って、いまどき。
俺は師匠には申し訳ないが、腹を抱えた。
「笑いごとじゃない。その女には近づかないほうがいい」
思いもかけない真剣な顔で迫られた。
「でも京介さんがその停学になった人とは限らないし」
俺はあくまで一歩引いて流そうとしていた。
しかし「京子」という名前が妙に頭の隅に残ったのだった。
地元の大学ということもあってか、その女子高出身の人が俺の
周辺には結構いた。
同じ学科の先輩で、その女子高OBの人がいたのでわざわざ話
を聞きに行った。
やはり、自分でもかなり気になっていたらしい。
「京子さん? もちろん知ってる。私の1コ上。そうそう、停
学になってた。なんとか京子と、山中ちひろ。占いとか言っ
て、血を吸ってたらしい。うわー、きしょい。二人とも頭おか
しいんだって。とくに京子さんの方は、名前を口に出しただけ
で呪われるとかって、下級生にも噂があったくらい。えーと、
そうそう、間崎京子。ギャ、言っちゃった」
その先輩に、「京子」さんと同学年という人を二人紹介しても
らった。二人とも他学部だったが、学内の喫茶店と、サークル
の部室に乗りこんで話を聞いた。
「京子さん? あの人はヤバイよ。悪魔を呼び出すとか言って、
へんな儀式とかしてたらしい。高校生がそこまでするかって
くらい、イッちゃってた。最初は占いとか好きな取り巻きが
結構いたけど、最後はその京子さんとちひろさんしかいなく
なってた。卒業して外に出たって話は聞かないから、案外ま
だ市内にいるんじゃない? なにしてるんだか知らないけど」
「その名前は出さないほうがいいですよ。いや、ホント。ふざ
けて陰口叩いてて、事故にあった子、結構いたし。ホントです
よ。え? そうそう。ショートで背が高かったなあ。顔はね、
きれいだったけど・・・近寄りがたくて、彼氏なんかいなさそ
うだった」
話を聞いた帰り道、ガムを踏んだ。
嫌な予感がする。
高校時代から、怪我人が出るような「遊び」をしていたという、
「京介」さんの話と合致する。
山中ちひろというのは、京介さんが親しかったという黒魔術系
サークルのリーダー格の女性ではないだろうか。
間崎京子。頭の中でその言葉が回った。
それから数日、ネットには繋がなかった。
なんとなく京介さんと会話するのが怖かった。ギクシャクして
しまいそうで。
ある意味、そんな京介さんもオッケー! という自分もいる。
別に取って食われるわけではあるまい。面白そうではないか。
しかし「近づくな」と短期間に4人から言われると、ちょっ
と警戒してしまうのも事実だった。
そんな、問題を先送りにしただけの日々を送っていたある日。
道を歩いているとガムを踏んだ。
歩道の端にこすりつけていると、そのとき不思議なことが起こ
った。
一瞬、あたりが暗くなり、すぐにまた明るくなったのだ。
雲の下に入ったとか、そんな暗さではなかった。
一瞬だが真っ暗といっていい。
しばらくその場で固まっていると、また同じことが起こった。
パッパッと、周囲が明滅したのだ。
まるでゆっくりまばたきした時のようのようだった。
しかしもちろん、自分がしたまばたきに驚くようなバカではな
い。
怖くなって、その場を離れた。
次は、家で歯磨きをしているときだった。
パチ、パチ、と2回、暗闇に視界がシャットダウンされた。
驚いて、口の中のものを飲んでしまった。
そんなことが数日続き、ノイローゼ気味になった俺は師匠に泣
きついた。
師匠は開口一番、
「だから言ったのに」
そんなこと言われても。なにがなんだか。
「その女のことを嗅ぎ回ったから、向こうに気づかれたんだ。
『それ』はあきらかにまばたきだよ」
どういうことだろう?
「霊視ってあるよね? 霊視されている人間の目の前に、霊視
している人間の顔が浮かぶっていう話、聞いたことない?
それとはちょっと違うけど、そのまばたきは『見ている側』の
まばたきだと思う」
そんなバカな。
「見られてるっていうんですか」
「その女はヤバイ。なんとかした方がいい」
「なんとかなんて、どうしたらいいんですか」
師匠は、謝りに行ってきたら? と他人事まるだしの口調で
言った。
「ついて来て下さいよ」と泣きついたが、相手にされない。
「怖いんですか」と伝家の宝刀を抜いたが、「女は怖い」の
一言でかわされてしまった。
京介さんのマンションへ向かう途中、俺は悲壮な覚悟で夜道を
歩いていた。
自転車がパンクしたのだった。
偶然のような気がしない。
またガムを踏んだ。
偶然のような気がしないのだ。
地面に靴をこすりつけようとして、ふと靴の裏を見てみた。
心臓が止まりそうになった。
なにもついていなかった!
ガムどころか、泥も汚れも、なにも。
では、あの足の裏を引っ張られる感覚は一体なに?
「京子」さんのことを嗅ぎ回るようになってから、やたら踏
むようになったガムは、もしかしてすべてガムではなかったの
だろうか?
立ち止まった俺を、俺のではないまばたきが襲った。
上から閉じていく世界のその先端に、一瞬、ほんの一瞬、黒く
長いものが見えた気がした。
睫毛?
そう思ったとき、俺は駆け出した。
勘弁してください!
そう心の中で叫びながら、マンションへ走った。
チャイムを鳴らしたあと、「うーい」というだるそうな声とと
もにドアが開いた。
「すみませんでした!」
京介さんは俺を見下ろして、すぐにしゃがんだ。
「なんでいきなり土下座なんだ」
まあとにかく入れ、と言って部屋に上がらされた。
俺は半泣きで、謝罪の言葉を口にして、今までのことを話した
はずだが、あまり覚えていない。
俺の要領を得ない話を聞き終わったあと、京介さんはため息を
ついてジーンズのポケットをごそごそと探り、財布から自動二
輪の免許書を取り出した。
『山中ちひろ』
そう書いてあった。
俺は間抜け面で、
「だ、だって、背が高くてショートで・・・」
と言ったが、
「私は高校のときはずっとロングだ」
バカか、と言われた。
じゃあ、間崎京子というのは・・・
「お前は命知らずだな。あいつにだけは、近づかないほうがいい」
どこかホッとして、そしてすぐに鳥肌が立った。
|
はじまりはただの占いだったという。
女の子であれば、小学生や中学生のときにハマッた経験は
あるだろう。高校になっても占いに凝っている子となれば、
占いの方法もマニアックなものになり、ちょっと傍目には
キモいと言われたりする。
京介さんもそのキモい子の1人で、タロットを主に使った
シンプルな占いを休み時間のたびにしていたそうだ。
やがて校内で一過性の占いブームが起きて、あちこちで占
いグループが生まれた。
子どもの頃から占い好きだった京介さんはその知識も豊富
で、多くの生徒に慕われるようになった。
タロットやトランプ占いから、ホロスコープやカバラなど
を使う、凝ったグループも出てきはじめた。
その中で、黒魔術系と言っていいような陰湿なことをする
集団が現れる。
そのボスが間崎京子という生徒だった。
京介さんと間崎京子はお互いに認め合い、また牽制しあっ
た。仲が良かったとも言えるし、憎みあっていたとも言え
る、一言では表せない関係だったそうだ。
そんなある日、京介さんはあるクラスメートの手首に傷が
あるのに気がついた。
問いただすと、間崎京子に占ってもらうのに必要だったと
いう。
間崎京子本人のところに飛んでいくと、「血で占うのよ」と
涼しい顔でいうのだった。
指先や手首をカミソリなどで切って、紙の上に血をたらし、
その模様の意味を読み解くのだそうだ。
そんなの占いとは認めない、と言ったが、取り巻きたちに
「あなたのは古いのよ」とあしらわれた。
その後、手首や指先などに傷を残す生徒はいなくなったが、
血液占いは続いているようだった。ようするに目立つとこ
ろから血を採らなくなった、というだけのことだ。
これだけ占いが流行ると他の子とは違うことをしたいとい
う自意識が生まれ、よりディープなものを求めた結果、そ
れに応えてくれる間崎京子という重力源に次々と吸い込ま
れていくかのようだった。
学校内での間崎京子の存在感は、ある種のカルト教祖的で
ありその言動は畏怖の対象ですらあった。
「名前を出しただけで呪われる」という噂は、単に彼女の
地獄耳を怖れたものではなく、実際に彼女の周辺で不可解
な事故が多発している事実からきていたそうだ。
血液占いのことを京介さんが把握してから数週間が経った
ある日、休み時間中にクラスメートの一人が急に倒れた。
そばにいた京介さんが抱き起こすと、その子は「大丈夫、
大丈夫。ちょっと立ちくらみ」と言って何事もなかったか
のように立ち去ろうとする。「大丈夫じゃないだろう」と
言う京介さんの手を、彼女は強い力で振り払った。
「放っておいてよ」と言われても放っておけるものでもな
かった。その子は間崎京子信者だったから。
その日の放課後、京介さんは第二理科室へ向かった。
そこは間崎京子が名目上部長を務める生物クラブの部室に
もなっていたのだが、生徒たちは誰もがその一角には足を
踏み入れたがらなかった。時に夜遅くまで人影が窓に映っ
ているにも関わらず、生物クラブとしての活動など、そこ
では行われてはいないことを誰しも薄々知っていたから。
第二理科室に近づくごとに、異様な威圧感が薄暗い廊下の
空間を歪ませているような錯覚を感じる。おそらくこれは
教員たちにはわからない、生徒だけの感覚なのだろう。
「京子、入るぞ」
そんな部屋のドアを京介さんは無造作に開け放った。
暗幕が窓に下ろされた暗い室内で、短い髪をさらにヘアバ
ンドで上げた女生徒が、煮沸されるフラスコを覗き込んで
いた。
「あら、珍しいわね」
「一人か」
奥のテーブルへ向かう足が、一瞬止まる。
この匂いは。
「おい、何を煮てる」
「ホムンクルス」
あっさり言い放つ間崎京子に、京介さんは眉をしかめる。
「血液と精液をまぜることで、人間を発生させようなんて
どこのバカが言い出したのかしら」
間崎京子は唇だけで笑って、火を止めた。
「冗談よ」
「冗談なものか、この匂いは」
京介さんはテーブルの前に立ちはだかった。
「占い好きの連中に聞いた。おまえ、集めた血をどうして
るんだ」
今日目の前で倒れた女生徒は、左手の肘の裏に注射針の跡
があった。静脈から血を抜いた痕跡だ。それも針の跡は一
箇所ではなかった。とても占いとやらで必要な量とは思え
ない。
間崎京子は切れ長の目で京介さんを真正面から見つめた。
お互い何も発しなかったが、張り詰めた空気のなか時間だ
けが経った。
やがて間崎京子が胸元のポケットから小さなガラス瓶を取
り出し、首をかしげた。瓶は赤黒い色をしている。
「飲んでるだけよ」
思わず声を荒げかけた京介さんを制して、続けた。
「白い紙に落とすより、よほど多くのことがわかるわ。寝
不足も、過食も、悩みも、恋人との仲だって」
「それが占いだって?」
肩を竦めて見せる間崎京子を睨み付けたまま、吐き捨てるよ
うに言った。
「好血症ってやつですか」
そこまで息を呑んで聞いていた俺だが、思わず口を挟んだ。
京介さんはビールを空けながら首を横に振った。
「いや、そんな上等なものじゃない。ノー・フェイトだ」
え? なんですか? と聞き返したが、今にして思うとその
言葉は京介さんの口癖のようなもので、no fate 、つまり
《運命ではない》という言葉を、京介さんなりの意味合いで
使っていたようだ。
それは《意思》と言い換えることができると思う。
この場合で言うなら、間崎京子が血を飲むのは己の意思の
体現だというのことだ。
「昔、生物の授業中に先生が『卵が先か鶏が先か』って話
をしたことがある。後ろの席だった京子がボソッと、卵
が先よね、って言うんだ。どうしてだって聞いたら、な
んて言ったと思う? 『卵こそ変化そのものだから』」
京介さんは次のビールに手を伸ばした。
俺はソファに正座という変な格好でそれを聞いている。
「あいつは『変化』ってものに対して異常な憧憬を持って
いる。それは自分を変えたい、なんていう思春期の女子に
ありがちな思いとは次元が違う。例えば悪魔が目の前に
現れて、お前を魔物にしてやろう、って言ったらあいつ
は何の迷いもなく断るだろう。そしてたぶんこう言うん
だ『なりかただけを教えて』」
間崎京子は異臭のする涙滴型のフラスコの中身を、排水溝
に撒きながら口を開いた。
「ドラキュラって、ドラゴンの息子って意味なんですって。
知ってる? ワラキアの公王ヴラド2世って人は竜公と
あだ名された神聖ローマ帝国の騎士だったけど、その息
子のヴラド3世は串刺し公って異名の歴史的虐殺者よ。
Draculの子だからDracula。でも彼は竜にはならなかった」
恍惚の表情を浮かべて、そう言うのだ。
「きっと変身願望が強かったのよ。英雄の子供だって、好
きなものになりたいわ」
「だからお前も、吸血鬼ドラキュラの真似事で変身できる
つもりか」
京介さんはそう言うと、いきなり間崎京子の手からガラス瓶
を奪い取った。
そして蓋を取ると、ためらいもなく中身を口に流し込んだ。
あっけにとられる間崎京子に、むせながら瓶を投げ返す。
「たかが血だ。水分と鉄分とヘモグロビンだ。こんなこと
で何か特別な人間になったつもりか。ならこれで私も同
じだ。お前だけじゃない。占いなんていう名目で脅すよ
うに同級生から集めなくったって、すっぽんでも買って
来てその血を飲んでればいいんだ」
まくしたてる京介さんに、間崎京子は面食らうどころかや
がて目を輝かせて、この上ない笑顔を浮かべる。
「やっぱり、あなた、素晴らしい」
そして両手を京介さんの頬の高さに上げて近寄って来よう
とした時、「ギャー」という、つんざくような悲鳴があが
った。
振り返ると閉めたはずの入り口のドアが開き、数人の女生
徒が恐怖に引き攣った顔でこっちを見ている。
口元の血をぬぐう京介さんと目が合った中の一人が、崩れ
落ちるように倒れた。
そしてギャーギャーとわめきながら、その子を数人で抱えて
転がるように逃げていった。
第二理科室に残された二人は、顔を見合わせた。
やがて間崎京子が、あーあ、となげやりな溜息をつくとテ
ーブルの上に腰をかける。
「この遊びもこれでおしまい。あなたのせいとは言わないわ。
同罪だしね」
悪びれもせず、屈託のない笑顔でそう言う。
京介さんはこれから起こるだろう煩わしい事にうんざりし
た調子で、隣りに並ぶように腰掛ける。
「おまえと一緒にいるとロクなことになったためしがない」
「ええ、あなたは完全に冤罪だしね」
「私も血を飲んだんだ。おまえと同じだ」
あら、と言うと嬉しそうな顔をして、間崎京子は肩を落と
す京介さんの耳元に唇を寄せて囁いた。
あの血はわたしの血よ。
それを聞いた瞬間、京介さんは吐いた。
俺は微動だにせず、正座のままでその話を聞いていた。
「それで停学ですか」
京介さんは頷いて、空になったビール缶をテーブルに置く。
誰もが近づくなと言ったわけがわかる気がする。
間崎京子という女はやばすぎる。
「高校卒業してからは付き合いがないけど、あいつは今頃
何に変身してるかな」
やばい。ヤバイ。
俺の小動物的直感がそう告げる。
京介さんが思い出話の中で、「間崎京子」の名前を出すた
びに俺はビクビクしていた。
ずっと見られていた感覚を思い出してゾッとする。
近づき過ぎた。
そう思う。
おびえる俺に京介さんは「ここはたぶん大丈夫」と言って、
部屋の隅を指す。
見ると、鉄製の奇妙な形の物体が四方に置かれている。
「わりと強い結界。のつもり。出典は小アルベルツスのグ
リモア」
なんだかよくわからない黒魔術用語らしきものが出てきた。
「それに」
と言って、京介さんは胸元からペンダントのようなものを
取り出した。
首から掛けているそれは、プレート型のシルバーアクセに
見えた。
「お守りですか」
と聞くと、ちょっと違うかなぁと言う。
「日本のお守りはどっちかというとアミュレット。これは
タリスマンっていうんだ」
説明を聞くに、アミュレットはまさにお守りのように受動
的な装具で、タリスマンはより能動的な、「持ち主に力を
与える」ための呪物らしい。
「これはゲーティアのダビデの星。最もメジャーでそして
最も強力な魔除け。年代物だ。お前はしかし、私たちのサ
ークルに顔出してるわりには全然知識がないな。何が目的
で来てるんだ。おっと、私以外の人間が触ると力を失うよ
うに聖別してあるから、触るな」
見ると手入れはしているようだが、プレートの表面に描か
れた細かい図案には随所に錆が浮き、かなりの古いもので
あることがわかる。
「ください。なんか、そういうのください」
そうでもしないと、とても無事に家まで帰れる自信がない。
「素人には通販ので十分だろう。と言いたいところだが、
相手が悪いからな」
京介さんは押入れに頭を突っ込んで、しばしゴソゴソと探
っていたが「あった」と言って、微妙に歪んだプレートを
出してきた。
「トルエルのグリモアのタリスマン。まあこれも魔除けだ。
貸してやる。あげるんじゃないぞ。かなり貴重なものだ
からな」
なんでもいい。ないよりましだ。
俺はありがたく頂戴してさっそく首から掛けた。
「黒魔術好きな人って、みんなこういうの持ってるんですか」
「必要なら持ってるだろう。必要もないのに持ってる素人
も多いがな」
京子さんは、と言いかけて、言い直す形でさらに聞いてみた。
「あの人も、持ってるんですかね」
「持ってたよ。今でも持ってるかは知らないけど」
あいつのは別格だ。
京介さんは自然と唾を飲んで、言った。
「はじめて見せてもらった時は、足が竦んだ。今でも寒気
がする」
そんなことを聞かされると怖くなってくる。
「あいつの父親がそういう呪物のコレクターで、よりによ
ってあんなものを娘に持たせたらしい。人格が歪んで当
然だ」
煽るだけ煽って、京介さんは詳しいことは教えてくれなか
った。
ただなんとか聞き出せた部分だけ書くと、「この世にあっ
てはならない形」をしていること、そして「五色地図の
タリスマン」という表現。
どんな目的のためのものなのか、そこからは窺い知れない。
「靴を引っ張られる感覚があったんだってな。感染呪術ま
がいのイタズラをされたみたいだけど、まあこれ以上変
に探りまわらなければ大丈夫だろう」
京介さんはそう安請け合いしたが、俺は黒魔術という「遊
びの手段」としか思っていなかったものが、現実になんら
かの危害を及ぼそうとしていることに対して、信じられな
い思いと、そして得体の知れない恐怖を感じていた。
体が無性に震えてくる。
「一番いいのは信じないことだ。そんなことあるわけあり
ません、気のせいですって思いながら生きてたら、それ
でいい」
京介さんはビールの缶をベコッとへこますと、ゴミ箱に投
げ込んだ。
そう簡単にはいかない。
なぜなら、間崎京子のタリスマンのことを話しはじめた時
から、俺の感覚器はある異変に反応していたから。
京介さんが、第二理科室に乗り込んだ時の不快感が、今は
わかる気がする。
体が震えて、涙が出てきた。
俺は借りたばかりのタリスマンを握り締めて、勇気を出して
口にした。
「血の、匂いが、しません、か」
部屋中にうっすらと、懐かしいような禍々しいような異臭
が漂っている気がするのだ。
京子さんは今日、一度も見せなかったような冷徹な表情で、
「そんなことはない」
と言った。
いや、やっぱり血の匂いだ。気の迷いじゃない。
「でも・・・・・・」
言いかけた俺の頭を京介さんはグーで殴った。
「気にするな」
わけがわからなくなって錯乱しそうな俺を、無表情を崩さ
ない京介さんがじっと見ている。
「生理中なんだ」
笑いもせず、淡々とそう言った顔をまじまじと見たが、その
真贋は読み取れなかった。
大学1回生の秋。
借りたままになっていたタリスマンを返しに京介さんの家
に行った。
「まだ持ってろよ」
という思いもかけない真剣な調子に、ありがたくご好意に
従うことにする。
「そういえば、聞きましたよ」
愛車のインプレッサをガードレールに引っ掛けたという噂
が俺の耳まで流れてきていた。
京介さんはブスッとして頷くだけだった。
「初心者マークが無茶な運転してるからですよ」
バイクの腕には自信があるらしいから、スピードを出さな
いと物足りないのだろう。
「でもどうして急に車の免許なんか取ったんですか」
バイカーだった京介さんだが、短期集中コースでいつのま
にか車の免許を取り、中古のスポーツカーなんかをローンで
購入していた。
「あいつが、バイクに乗り始めたのかも知れないな」
不思議な答えが返されてきた。
あいつというのは間崎京子のことだろうと察しがついた。
だがどういうことだろう。
「双子ってさ、本人が望もうが望むまいがお互いがお互い
に似てくるし、それが一生つきまとうだろう。それが運
命なら、しかたないけど。双子でない人間が、相手に似
てくることを怖れたらどうすると思う」
それは間崎京子と京介さんのことらしい。
「昔からなんだ。あいつが父親をパパなんて呼ぶから、私
はオヤジと呼ぶようになった。あいつがコカコーラを飲
むから私はペプシ。わかってるんだ。そんな表面的な抵
抗、意味ないと思っていても自然と体があいつと違う行
動をとる。違うって、ホントに姉妹なんていうオチはない。
とにかく嫌なんだよ。なんていうか魂のレベルで」
高校卒業するころ髪を切ったのも、あいつが伸ばしはじめ
たからだ。
ショートカットの頭に手のひらを乗せて言った。
「今でもわかる」
なにかをしようとしていても、その先にあいつがいる時は、
わかるんだ。
離れていても同じ場所が痛むという双子の不思議な感覚とは、
逆の力みたいだ。
でも逆ってことは、結局同じってことだろう。
京介さんは独り言のように呟く。
「変な顔で見るな。おまえだってそうだろう」
指をさされた。
「最近、態度が横柄になってきたと思ってたら、そういう
ことか」
一人で納得している。
どういうことだろう。
「おまえ、いつから俺なんて言うようになったんだ」
ドクン、と心臓が大きな音を立てた気がした。
「あの変態が、僕なんて言い出したからだろう」
そうだ。
自分では気づいていなかったけれど。
そうなのかも知れない。
「おまえ、あの変態からは離れた方がいいんじゃないか」
嫌な汗が出る。
じっと黙って俺の顔を見ている。
「ま、いいけど。用がないならもう帰れ。今から風呂に入
るんだ」
俺はなんとも言えない気分で、足取りも重く玄関に向かお
うとした。
ふと思いついて、気になっていたことを口にする。
「どうして『京介』なんていうハンドルネームなんですか」
聞くまでもないことかと思っていた。
たぶん全然ベクトルが違う名前にはできないのだろう。京
子と京介。正反対で、同じもの。それを魂が選択してしま
うのだ。
ところが京介さんは顔の表情をひきつらせて、ボソボソと
言った。
「ファンなんだ」
信じられないことに、それは照れている顔らしい。
え? と聞き返すと、
「BOφWYの、ファンなんだ」
俺は思わず吹いた。いや、なにもおかしくはない。一番自
然なハンドルネームの付け方だ。
けれど、京介さんは顔をひきつらせたまま付け加える。
「B'zも好きなんだがな。『稲葉』にしなかったのは・・・・・・」
やっぱりノー・フェイトなのかも知れない。
そう呟き、そして帰れと俺に手のひらを振るのだった。 |
大学2回生の春ごろ、オカルト道の師匠である先輩の家にふ
らっと遊びに行った。
ドアを開けると狭い部屋の真ん中で、なにやら難しい顔をし
て写真を見ている。
「なんの写真ですか」
「心霊写真」
ちょっと引いた。
心霊写真がそんなに怖いわけではなかったが、問題は量なの
だ。
畳の床じゅうにアルバムがばらまかれて、数百枚はありそう
だった。
どこでこんなに! と問うと、
「業者」と写真から目を離さずに言うのだ。
どうやら大阪にそういう店があるらしい。
お寺や神社に持ち込まれる心霊写真は、もちろんお払いをし
て欲しいということで依頼されるのだが、たいてい処分もし
て欲しいと頼まれる。
そこで燃やされずに横流しされたモノが、マニアの市場へ出
てくると言う。
信じられない世界だ。
何枚か手にとって見たが、どれも強烈な写真だった。
もやがかかってるだけ、みたいなあっさりしたものはない。
公園で遊ぶ子どもの首がない写真。
海水浴場でどうみても水深がありそうな場所に無表情の男が
膝までしか浸からずに立っている写真。
家族写真なかに祭壇のようなものが脈絡もなく写っている写
真・・・
俺はおそるおそる師匠に聞いた。
「お払い済みなんでしょうね」
「・・・きちんとお払いする坊さんやら神主やらが、こんな
もの闇に流すかなあ」
「じゃ、そういうことで」
出て行こうとしたが、師匠に腕をつかまれた。
「イヤー!」
この部屋にいるだけで呪われそうだ。
雪山の山荘で名探偵10人と遭遇したら、こんな気分になる
だろうか。
観念した俺は、部屋の隅に座った。
師匠は相変わらず眉間にしわを寄せて写真を眺めている。
ふと、目の前の写真の束の中に変な写真を見つけて手に取った。
変というか、変じゃないので、変なのだ。
普通の風景写真だった。
「師匠、これは?」
と見せると、
「ああ、これはこの木の根元に女の顔が・・・あれ?
ないね。 消えてるね」
まあ、そんなこともあるよ。
って、言われても。
怖すぎるだろ!
俺は座りしょんべんをしそうになった。
そして部屋の隅でじっとすることし暫し。
ふいに師匠がいう。
「昔は真ん中で写真を撮られると魂が抜けるだとか、寿命が
縮むだとかいわれたんだけど、これはなぜかわかる?」
「真ん中で写る人は先生だとか上司だとか、年配の人が多い
から、早く死に易いですよね。昔の写真を見ながら、ああこ
の人も死んだ、この人も死んだ、なんて話してると自然にそ
んなうわさが立ったんでしょうね」
「じゃあこんな写真はどう思う」
師匠はそう言うと、白黒の古い写真を出した。
どこかの庭先で着物を着た男性が3人並んで立っている写真
だ。
その真ん中の初老の男性の頭上のあたりに靄のようなものが
掛かり、それが顔のように見えた。
「これを見たら魂が抜けたと思うよね」
たしかに。本人が見たら生きた心地がしなかっただろう。
師匠は「魂消た?」とかそういうくだらないことを言いなが
ら写真を束のなかに戻す。
「魂が取られるとか、抜けるとかいう物騒なことを言ってる
のに、即死するわけじゃなくて、せいぜい寿命が縮むってい
うのも変な話だよね」
なるほど、そんな風に考えたことはなかった。
「昔の人は、魂には量があってその一部が失われると考えて
いたんだろうか」
そういうことになりそうだ。
「じゃあ魂そのものの霊体が写真にとられたら、どういうこと
になる?」
「それは心霊写真のことですか? 身を切られるようにつらい
でしょうね」
と、くだらない冗談で返したがよく考えると、
「でもそれは所詮昔の人の思い込みが土台になってるから、
一般化できませんよ」
俺はしてやった、という顔をした。
すると師匠はこともなげに言う。
「その思い込みをしてる昔の人の霊だったら?」
うーむ。
「どういうことになるんでしょうか」
取り返しにくるんじゃない?
師匠は囁く様な声で言うのだ。
やめて欲しい。
そんな風に俺をいびりながらも、師匠はまた難しい顔をして
写真を睨みつけている。
部屋に入った時から同じ写真ばかり繰り返し見ていることに
気づいた俺は、地雷と知りつつ「なんですか」と言った。
師匠は黙って2枚の写真を差し出した。
俺はビクビクしながら受け取る。
「うわ!」
と思わず声を上げて目を背けた。
ちらっと見ただけで、よくわからなかったが、猛烈にヤバイ
気がする。
「別々の場所で撮られた写真に同じものが写ってるんだよ。
えーっと、確か・・・」
師匠はリストのようなものをめくる。
「あった。右側が千葉の浦安でとられたネズミの国での家族
旅行写真。もうひとつが広島の福山でとられた街角の風景写真」
ちなみに写真に関する情報がついてたほうが、高い値がつく。
と付け加えた。
「もちろん撮った人も別々。4年前と6年前。たまたま同じ
業者に流れただけで、背後に共通項はない。と思う」
俺は興味に駆られて、薄目を開けようとした。
その時、師匠が
「待った」と言って俺を制し、窓の方へ近づいていった。
「夜になった」
また難しい顔をして言う。
なにを言い出したのかとドキドキして、写真を伏せた。
師匠が窓のカーテンをずらすと、外は日が完全に暮れていた。
確か来たのは5時くらいだから、そろそろ暗くなって来てもお
かしくないよなあ。
と思いながら、腕時計を見る。
短針は9を指していた。
え?! そんなに経ってんの?
と驚いていると、師匠が唇を噛んで「まずいなぁ。実にまずい」と呟き、
「何時くらいだと思ってた?」
と聞いてくる。
「6時半くらいかな、と」
確かに時間が過ぎるのが早すぎる気もするが、それだけ写真を
見るのに集中していただけとも思える。
「僕は正午だ」
|
大学2年の夏休みに、知り合いの田舎へついて行った。
ぜひ一緒に来い、というのでそうしたのだが、電車とバスを乗り
継いで8時間もかかったのにはうんざりした。
知り合いというのは大学で出会ったオカルト好きの先輩で、俺は
師匠と呼んで畏敬したり小馬鹿にしたりしていた。
彼がニヤニヤしながら「来い」というのでは行かないわけにはいか
ない。
結局怖いものが見たいのだった。
県境の山の中にある小さな村で、標高が高く夏だというのに肌寒さ
すら感じる。
垣根に囲まれた平屋の家につくと、おばさんが出てきて「親戚だ」
と紹介された。
師匠はニコニコしていたが、その家の人たちからは妙にギクシャク
したものを感じて居心地が悪かった。
あてがわれた一室に荷物を降ろすと俺は師匠にそのあたりのことを
さりげなく聞いてみた。
すると彼は遠い親戚だから・・・というようなことを言っていたが
さらに問い詰めると白状した。
ほんとに遠かった。尻の座りが悪くなるほど。
遠い親戚でも、小さな子供が夏休みにやって来ると言えば田舎の
人は喜ぶのではないだろうか。
しかし、かつての子供はすでに大学生である。
ほとんど連絡も途絶えていた親戚の大人が友達をつれてやって来て、
泊めてくれというのでは向こうも気味が悪いだろう。
もちろん遠い血縁など、ここに居座るためのきっかけに過ぎない。
ようするに怖いものが見たいだけなのだった。
非常に、非常に、肩身の狭い思いをしながら俺はその家での生活
を送っていた。
家にいてもすることがないので、たいてい近くの沢に行ったり山道を
散策したりしてとにかく時間をつぶした。
師匠はというと、持って来ていた荷物の中の大学ノートとにらめっこ
していたかと思うと、ふらっと出て行って近所の家をいきなり訪ねて
はその家のお年寄りたちと何事か話し込んでいたりした。
俺は師匠のやり口を承知していたから、何も言わずただ待っていた。
二人いるその家の子供と、まだ一言も会話をしてないことを自嘲気味
に考えていた6日目の夜。
ようやく師匠が口を開いた。
「わかったわかった。ほんとうるさいなあ、もう教えるって」
6畳間の部屋の襖を閉めて、布団の上に胡坐をかくと声をひそめた。
「墓地埋葬法を知っているか」という。
ようするに土葬や鳥葬、風葬など土着の葬祭から、政府が管理する
火葬へとシフトさせるための法律だ、と師匠はいった。
「人の死を、習俗からとりあげたんだ」
この数日山をうろうろして墓がわりと新しいものばかりなのに気が
ついたか?と問われた。
気がつかなかった。確かに墓地は見はしたが・・・
「このあたりの集落はかつて一風変わった葬祭が行われていたらしい」
もちろん知っていてやって来たのだろう。
その上で何かを確認しに来たのだ。
ドキドキした。聞いたら後戻りできなくなる気がして。
家は寝静まっている。
豆電球のかすかな明かりの中で師匠がいった。
「死人が出ると荼毘に付して、その灰を畑に撒いたらしい。酸化
した土を中和させる知恵だね、ところが変なのはそのこと自体
じゃない。江戸中期までは死者を埋葬する習慣自体が一般的じゃ
なかった。死体は『捨てる』ものだったんだよ」
寒さが増したようだ。
夏なのに。
「この集落で死体を灰にして畑あっさりに撒けたのには、さらに理由
がある。死体をその人の本体、魂の座だと認めていなかったんだ。
本体はちゃんと弔っている。死体から抜き出して」
抜き出す、という単語の意味が一瞬分からなかった。
「この集落では葬儀組みのような制度はなく、葬祭を取り仕切るのは
代々伝わる呪術師、シャーマンの家だったらしい。キと呼ばれてい
たみたいだ。
死人が出ると彼らは死体を預かり、やがて『本体』を抜かれた死体
が返され、親族はそれを燃やして自分たちの畑に撒く。
抜かれた『本体』は木箱に入れられて、キが管理する石の下にまと
めて埋められた。いわばこれが墓石で、祖霊に対する弔意や穢れ払
いはこの石に向けられたわけ。
彼らはこの『本体』のことをオンミと呼んでいたみたい。年寄りが
この言葉を口にしたがらないから聞き出すのが大変だった」
師匠がこんな山の上へ来た理由がわかった。
その木箱の中身を見たいのだ。
そういう人だった。
「この習慣は山を少し下った隣の集落にはなかった。近くに浄土宗の
寺があり、その檀徒だったからだ。寺が出来る前はとなったらわか
らないけど、どうやらこの集落単独でひっそりと続いてきた習慣
みたいだ。その習慣も墓地埋葬法に先駆けて明治期に終わっている。
だからこの集落の墓はすべて明治以降のものだし、ほとんどは大正
昭和に入ってからのものじゃないかな」
その日はそのまま寝た。
その夜、生きたまま木棺に入れられる夢を見た。
次の日の朝その家の家族と飯を食っていると、そろそろ帰らないか
というようなことを暗にいわれた。
帰らないんですよ、箱の中を見るまでは。と心の中で思いながら
味のしない飯をかき込んだ。
その日はなんだか薄気味が悪くて山には行かなかった。
近くの川でひとり日がな一日ぼうっとしていた。
『僕はその木箱の中に何が入っているのか、そのことよりもこの集落
の昔の人々が人間の本体をいったい何だと考えていたのか、それが
知りたい』
俺は知りたくない。でも想像はつく。
あとはどこの臓器かという違いだけだ。
俺は腹の辺りを押さえたまま川原の石に腰掛けて水をはねた。
村に侵入した異物を子供たちが遠くから見ていた。
あの子たちはそんな習慣があったことも知らないだろう。
その夜、丑三つ時に師匠が声を顰め、「行くぞ」といった。
川を越えて暗闇の中を進んだ。向かった先は寺だった。
「例の浄土宗の寺だよ。どう攻勢をかけたのか知らないが、明治期に
くだんの怪しげな土着信仰を廃して、壇徒に加えることに成功した
んだ。だから今はあのあたりはみんな仏式」
息をひそめて山門をくぐった。
帰りたかった。
「そのあと、葬祭をとりしきっていたキの一族は血筋も絶えて今は
残っていない。ということになってるけど、恐らく迫害があった
だろうね。というわけでくだんの木箱だけど、どうも処分されて
はいないようだ。宗旨の違う埋葬物だけどあっさりと廃棄するほど
には浄土宗は心が狭くなかった。ただそのままにもしておけない
ので当時の住職が引き取り、寺の地下の蔵にとりあえず置いていた
ようだが、どうするか決まらないまま代が変わりいつのまにやら
文字どおり死蔵されてしまって今に至る、というわけ」
よくも調べたものだと思った。
地所に明かりがともっていないことを確認しながら、小さなペンライト
でそろそろと進んだ。
小さな本堂の黒々とした影を横目で見ながら、俺は心臓がバクバク
していた。
どう考えてもまともな方法で木箱を見に来た感じじゃない。
「僕の専攻は仏教美術だから、そのあたりから攻めてここの住職と
仲良くなって鍵を借りたんだ」
そんなワケない。寝静まってから泥棒のようにやって来る理由がない。
そこだ。と師匠がいった。
本堂のそばに厠のような屋根があり、下に鉄の錠前がついた扉があった。
「伏蔵だよ」
どうも木箱の中身については当時から庶民は知らなかったらしい。
知ることは禁忌だったようだ。
そこが奇妙だ。
と師匠はいう。
その人をその人たらしめるインテグラルな部分があるとして、それ
が何なのか知りもせずに手を合わせてまた畏れるというのは。
やはり変な気がする。
それが何なのか知っているとしたら、それを「抜いた」というシャー
マンと、あるいは木箱を石の下から掘り出して伏蔵に収めた当時の
住職もか・・・
師匠がごそごそと扉をいじり、音を立てないように開けた。
饐えた匂いがする地下への階段を二人で静かに降りていった。
降りていくときに階段がいつまでも尽きない感覚に襲われた。
実際は地下一階分なのだろうが、もっと長く果てしなく降りたような
気がした。
もともとは本山から頂戴したなけなしの経典を納めていたようだが、
今はその主人を変えている、と師匠は言った。
異教の穢れを納めているんだよ。というささやくような声に一瞬気が
遠くなった。
高山に近い土地柄に加え、真夜中の地下室である。
まるで冬の寒さだった。
俺は薄着の肩を抱きながら、師匠のあとにビクビクしながら続いた。
ペンライトでは暗すぎてよく分からないが、思ったより奥行きがある。
壁の両脇に棚が何段にもあり、主に書物や仏具が並べられていた。
「それ」は一番奥にあった。
ひひひ
という声がどこからともなく聞こえた。
まさか、と思ったがやはり師匠の口から出たのだろうか。
厚手の布と青いシートで2重になっている小山が奥の壁際にある。
やっぱりやめよう、と師匠の袖をつかんだつもりだったが、なぜか
手は空を切った。手は肩に乗ったまま動いていなかった。
師匠はゆっくりと近づき、布とシートをめくりあげた。
木箱が出てきた。
大きい。
正直言って、小さな木箱から小さな肝臓の干物のようなものが出て
くることを想像していた。
しかしここにある箱は少なかった。三十はないだろう。
その分一つ一つが抱えなければならないほど大きい。
嫌な予感がした。
木箱の腐食が進んでいるようだった。石の下に埋められていたのだ
から、掘り出した時に箱のていを成していないものは処分してしま
ったのかも知れない。
師匠がその内の一つを手にとってライトをかざした。
それを見た瞬間、明らかに今までと違う鳥肌が立った。
ぞんざいな置かれ方をしていたのに、木箱は全面に墨書きの経文で
びっしりと覆われていたからだ。
如是我聞一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園與大比丘衆千二百五十人倶・・・
師匠がそれを読んでいる。
やめてくれ。
起きてしまう。
そう思った。
ペンライトの微かな明かりの下で、師匠が嬉しそうな顔をして指に
唾をつけ、箱の口の経文をこすり落とした。
他に封印はない。
ゆっくりと蓋をあげた。
俺は怖いというか心臓のあたりが冷たくなって、そっちを見られな
かった。
「う」
というくぐもった音がして、思わず振り向くと師匠が箱を覗き込ん
だまま口をおさえていた。
俺は気がつくと出口へ駆け出していた。
明かりがないので何度も転んだ。
それでももう、そこに居たくなかった。
階段を這い登りわずかな月明かりの下に出ると、山門のあたりまで
戻りそこでうずくまっていた。
どれくらい経っただろうか。
師匠が傍らに立っていて青白い顔で「帰ろう」と言った。
結局次の日俺たちは1週間お世話になった家を辞した。
またいらしてねとは言われなかった。
もう来ない。来るわけがない。
帰りの電車でも俺は聞かなかった。木箱の中身のことを。
この土地にいる間は聞いてはいけない、そんな気がした。
夏休みも終わりかけたある日に俺は奇形の人を立て続けに見た。
そのことを師匠に話した折りに、奇形からの連想だろうか、そういえ
ばあの木箱は・・・と口走ってしまった。
ああ、あれね。
あっさり師匠はいった。
「木箱で埋められてたはずだからまずないだろう、と思ってたものが
出てきたのには、さすがにキタよ」
胡坐をかいて眉間に皺をよせている。
俺は心の準備が出来てなかったが、かまわず師匠は続けた。
「屍蝋化した嬰児がくずれかけたもの、それが中身。かつて埋めら
れていたところを見たけど、泥地でもないしさらに木箱に入って
いたものが屍蝋化してるとは思わなかった。もっとも屍蝋化して
いたのは26体のうち3体だったけど」
嬰児?
俺は混乱した。
グロテスクな答えだった。そのものではなく、話の筋がだ。
死人の体から抜き出したもののはずだったから。
「もちもん産死した妊婦限定の葬祭じゃない。あの土地の葬儀の
すべてがそうなっていたはずなんだ。これについては僕もはっき
りした答えが出せない。ただ間引きと姥捨てが同時に行われて
いたのではないか、という推測は出来る」
間引きも姥捨ても今の日本にはない。想像もつかないほど貧しい時代
の遺物だ。
「死体から抜き出した、というのはウソでこっそり間引きたい赤ん坊
を家族が差し出していたと・・・?」
じゃあやはり、当時の土地の庶民も知っていたはずだ。
しかし言えないだろう。木箱の中身を知らない、という形式をとる
こと自体がこの葬祭を行う意味そのものだからだ。
ところが、違う違うとばかりに師匠は首を振った。
「順序が違う。あの箱の中にはすべて生まれたばかりの赤ん坊が入っ
ていた。年寄りが死んだときに、都合よく望まれない赤子が生まれ
て来るってのは変だと思わないか。逆なんだよ。望まれない赤子が
生まれて来たから年寄りが死んだんだよ」
婉曲な表現をしていたが、ようするに積極的な姥捨てなのだった。
嫌な感じだ。やはりグロテスクだった。
「この二つの葬儀を同時に行なわなければならない理由はよくわか
らない。ただ来し方の口を減らすからには行く末の口も減らさなく
てはならない、そんな道理があそこにはあったような気がする」
どうして死体となった年寄りの体から、それが出てきたような形を
とるのか、それはわからない。
ただただ深い土着の習俗の闇を覗いている気がした。
「そうそう、その葬祭をつかさどっていたキの一族だけどね、まるで
完全に血筋が絶えてしまったような言い方をしちゃったけど、そう
じゃないんだ。最後の当主が死んだあと、その娘の一人が集落の
一戸に嫁いでいる」
そういう師匠は、今までに何度もみせた、『人間の闇』に触れた時の
ような得体の知れない喜びを顔に浮かべた。
「それがあの僕らが逗留したあの家だよ。つまり・・・」
ぼくのなかにも
そう言うように師匠は自分の胸を指差した。
|
師匠が変なことを言うので、おもわず聞き返した。
「だから鉄塔だって」
大学1回生の秋ごろだったと思う。
当時の俺はサークルの先輩でもあるオカルト道の師匠に、オ
カルトのイロハを教わっていた。
ベタな話もあれば、中には師匠以外からはあまり聞いたこと
がないようなものも含まれている。
その時も、テットーという単語の意味が一瞬分からず二度聞
きをしてしまったのだった。
「鉄塔。てっ・と・う。鉄の塔。アイアン・・・・・・なんだ、ピ
ラァ? とにかく見たことないかな。夜中見上げてると、
けっこういるよ」
師匠が言うには、郊外の鉄塔に夜行くと人間の霊がのぼって
いる姿を見ることが出来るという。
どうして幽霊は鉄塔にのぼるのか。
そんな疑問のまえに幽霊が鉄塔にのぼるという前提が俺の中
にはない。
脳内の怪談話データベースを検索しても幽霊と鉄塔に関する
話はなかったように思う。
師匠は、えー普通じゃん。と言って真顔でいる。
曰くのある場所だからではなく、鉄塔という記号的な部分に
霊が集まるのだと言う。
近所に鉄塔はなかったかと思い返したが、子供のころ近所に
あった鉄塔がまっさきに頭に浮かんだ。
夕方学校の帰りにそばを通った、高くそびえる鉄塔と送電線。
日が暮れるころにはその威容も不気味なシルエットになって、
俺を見下ろしていた。
確かに夜の鉄塔には妙な怖さがある。
しかし霊をそこで見たことはない、と思う。
師匠の話を聞いてしまうとやたら気になってしまい、俺は近
くの鉄塔を探して自転車を飛ばした。
いざどこにあるか、となると自信がなかったが、なんのこと
はない。鉄塔は遠くからでも丸分かりだった。
住宅街を抜けて、川のそばにそびえ立つ姿を見つけると近く
に自転車を止め、基部の金網にかきついた。
見上げてみると送電線がない。
ボロボロのプレートに「○×線−12」みたいなことが書い
てあった。
おそらく移設工事かなにかで送電ルートから外れてしまった
のだろう。
錆が浮いた赤黒い塔は、怖いというより物寂しい感じがした。
というか、日がまだ落ちていなかった。
近所のコンビニや本屋で時間をつぶして、再び鉄塔へ戻った。
暗くなると、俄然雰囲気が違う。人通りもない郊外の鉄塔は、
見上げるとその大きさが増したような気さえする。
赤いはずの塔は今は黒い。それも夜の暗灰色の雲の中に、そ
の形の穴が開いたような、吸い込まれそうな黒だった。
風が出てきたようで、立ち入り禁止の金網がカサカサと音を
立て、送電線のない鉄塔からはその骨組みを吹き抜ける空気
が奇妙なうなりをあげていた。
周囲に明かりがなく、目を凝らしてみても鉄塔にはなにも見
えない。
オカルトは根気だ。
簡単には諦めない俺は、夜中3時まで座り込んで粘った。
出る、という噂も逸話もない場所で、そもそも幽霊なんか見
られるんだろうかという疑念もあった。
骨組みに影が座っているようなイメージを投影し続けたが、
なにか見えた気がして目を擦るとやっぱりそこにはなにもな
いのだった。
結局、見えないものを見ようとした緊張感から来る疲れで、
夜明けも待たずに退散した。
翌日、さっそく報告すると師匠は妙に嬉しそうな顔をする。
「え? あそこの鉄塔に行った?」
なぜか自分も行くと言いだした。
「だから、何も出ませんでしたよ」
と言うと、だからじゃないかと変なことを呟いた。
よくわからないまま、昼ひなかに二人してあの鉄塔に行った。
昼間に見ると、あの夜の不気味さは薄れてただの錆付いた老
兵という風体だった。
すると師匠が顎をさすりながら、ここは有名な心霊スポット
だったんだ、と言った。
頭からガソリンをかぶって焼身自殺をした人がいたらしい。
夜中この鉄塔の前を通ると、熱い熱いとすすり泣く声が聞こ
えるという噂があったそうだ。
「あのあたりに黒い染みがあった」
金網越しに師匠が指差すその先には、今は染みらしきものは
見えない。
なにか感じますか。と師匠に問うも、首を横に振る。
「僕も見たことがあったんだ」
自殺者の霊をここで。
そう言う師匠は焦点の遠い目をしている。
「今はいない」
独り言のように呟く。
「そうか。どうして鉄塔にのぼるのか、わかった気がする」
そして陽をあびて鈍く輝く鉄の塔を見上げるのだった。
俺にはわからなかった。聞いても「秘密」とはぐらかされた。
師匠が勝手に立て、勝手に答えに辿りついた命題は、それき
り話題にのぼることはなかった。
けれど今では鉄塔を見るたび思う。
この世から消滅したがっている霊が、現世を離れるために
『鉄塔』という空へ伸びるシンボリックな建築物をのぼるの
ではないだろうか。
長い階段や高層ビルではだめなのだろう。
その先が、人の世界に通じている限りは。
|
大学2回生時、9単位。3回生時0単位。
すべて優良可の良。
俺の成績だ。
そのころ子猫をアパートで飼っていたのであるが、いわゆる部屋飼いで一切
外には出さずに育てていて、こんなことを語りかけていた。
「おまえはデカなるで。この部屋の半分くらい。食わんでや、俺」
しかしそんな教育の甲斐なく子猫はぴったり猫サイズで成長を止めた。
そのころ、まったく正しく猫は猫になり。
犬は犬になり。
春は夏になった。
しかしながら俺の大学生活は迷走を続けて、いったい何になるのやら向かう
先が見えないのだった。
その夏である。大学2回生だった。
俺の迷走の原因となっている先輩の紹介で、俺は病院でバイトをしていた。
その先輩とは、俺をオカルト道へ引きずり込んだ元凶のお方だ。
いや、そのお方は端緒にすぎず結局は自分の本能のままに俺は俺になったの
かもしれない。
「師匠、なんかいいバイトないですかね」
その一言が、その夏もオカルト一色に染め上げる元になったのは確かだ。
病院のバイトとは言っても、正確にいうと「訪問看護ステーション」という
医療機関の事務だ。
訪問看護ステーションとは、在宅療養する人間の看護やリハビリのために、
看護師(ナース)や理学療法士(PT)、作業療法士(OT)が出向いてその
行為をする小さな機関だ。
ナース3人にPT・OT1人ずつ。そして事務1人の計6人。
この6人がいる職場が病院の中にあった。
もちろん経営母体は同一だったから、ナースやPTなどもその病院の出身で、
独立した医療機関とはいえ、ただの病院の一部署みたいな感覚だった。
その事務担当の職員が病欠で休んでしまって、復帰するまでの間にレセプト
請求の処理をするにはどうしても人手が足りないということで、俺にお声が
かかったのだった。
ナースの一人が所長を兼ねていて、彼女が師匠とは知り合いらしい。
60近かったがキビキビした人で、もともとこの病院の婦長(今は師長とい
うらしい)をしていたという。
その所長が言う。
「夜は早くかえりなさいね」
あたりまえだ。大体シフトからして17時30分までのバイトなんだから。
なんでも、ステーションのある4階はもともと入院のための病床が並んでい
たが、経営縮小期のおりに廃床され、その後ほかの使い道もないまま放置さ
れてきたのだという。今はナースステーションがあったという一室を改良し
て事務所として使っていた。そのためその階ではステーションの事務所以外
は一切使われておらず、一歩外に出ると昼間でも暗い廊下が人気もなくずーっ
と続いているという、なんとも薄気味悪い雰囲気を醸し出しているのだった。
それだけではない。ナースたちが囁くことには、この病棟は末期の患者の
ベッドが多く、昔からおかしなことがよく起こったというのだ。だからナース
たちも夜は残りたくないという。勤務経験のある人のその怖がり様は、ある種
の説得力を持っていた。
絶対早く帰るぞ。
そう心に決めた。
が、これが甘かった。
元凶は毎月の頭にあるレセプト請求である。一応の引継ぎ書はあるにはあるが、
医療事務の資格もなにもない素人には難しすぎた。特に訪問看護を受けるよう
な人は、ややこしい制度の対象になっている場合が多く、いったい何割をどこ
に請求して残りをどこに請求すればいいのやら、さっぱりわからなかった。
頭を抱えながらなんとか頑張ってはいたが、3日目あたりから残業しないと
無理だということに気づき、締め切りである10日までには仕上がるようにと、
毎日の帰宅時間が延びていった。
「大変ねえ」
と言いながら仕事を終えて帰るナースたちに愛想笑いで応えたあと、誰もい
ない事務所には俺だけが残される。
とっくに陽は暮れて、窓からは涼しげな夜風が入り込んでくる。
静かな部屋で、電卓を叩く音だけが響く。
ああ。いやだ。いやだ。
昔はこの部屋で夜中、ナースコールがよく鳴ったそうだ。
すぐにすぐにかけつけると、先日亡くなったばかりの患者の部屋だったり
したとか・・・・・・
そんな話を昼間に聞かされた。
一時期完全に無人になっていたはずの4階で、真夜中に呼び出し音が鳴ったこ
ともあるとか。ナースコールの機器なんてとっくに外されていたにもかかわらず。
確かに病院は怪談話の宝庫だ。でも現場で聞くのはいやだ。
俺はやっつけ仕事でなんとかその日のノルマを終えて、事務所を出ようとする。
恐る恐るドアを開くと、しーんと静まり返った廊下がどこまでも伸びている。
事務所のすぐ前の電灯が点いているだけで、それもやたらに光量が少ない。
どけちめ。だから病院はきらいだ。
廊下を少し進んで、階段を降りる。
1階までつくと人心地つくのだが、裏口から出ようとすると最後の関門がある。
途中で霊安室の前を通るのだ。
もっとこう、地下室とか廊下の一番奥とかそんなところにあることをイメージ
していた俺には意外だったが、あるものは仕方がない。
『霊安室』とだけ書かれたプレートのドアの前を通り過ぎていると、どうして
も摺りガラスの向こうに目をやってしまう。
中を見せたいのか見せたくないのか、どっちなんだと突っ込みたくなる。
中は暗がりなので、もちろんなにも見えない。なにかが蠢いていてもきっと外
からはわからないだろう。
そんな自分の発想自体に怯えて、俺は足早に通り過ぎるのだった。
そんなある日、レセプト請求も追い込みに入った頃に、夕方の訪問を終えた
ナースの一人が事務所に帰ってきた。
ドアを開けた瞬間、俺は思わず目を瞑った。なぜかわからないが、見ないほう
がいい気がしたのだ。
そのまま俯いて生唾を飲む俺の前をナースは通り過ぎ、所長の席まで行くと
沈んだ声で「××さんが亡くなりました」と言った。
所長は「そう」と言うと、落ち着いた声でナースを労った。そしてその人の
最期の様子を聞き、手を合わせる気配のあとで「お疲れさまでした」と一言いった。
PTやOTというリハビリ中心の訪問業務と違い、ナースは末期の患者を訪問
することが多い。病院での死よりも、自分の家での死を家族が、あるいは自分
が選択した人たちだ。多ければ年に10件以上の死に立ち会うこともある。
そんなことがあると、今更ながら病院は人の死を扱う場所なのだと気づく。
複数回訪問の多さから薄々予感されたことではあったが、ついさっきまでその
人のレセプトを仕上げていたばかりの俺にはショックが大きかった。
そして、いま目が開けられないのは、そこにその人がいるからだった。
その頃は異様に霊感が高まっていた時期で、けっして望んでいるわけでもない
のに、死んだ人が見えてしまうことがよくあった。高校時代まではそれほど
でもなかったのに、大学に入ってから霊感の強い人に近づきすぎたせいだろうか。
「じゃあ、これで失礼します。お疲れ様でした」
ナースが帰り支度をするのを音だけで聞いていた。そして蝿が唸っている
ような耳鳴りが去るのをじっと待った。
二つの気配がドアを抜けて廊下へ消えていった。
俺はようやく深い息を吐くと、汗を拭った。
たぶんさっきのは、とり憑いたというわけでもないのだろう。ただ「残って
いる」だけだ。
明日にはもう連れて来ることはないだろう。
俺は、ここに「残らなかった」ことを心底安堵していた。その日も夜遅くまで
残業しなければならなかったから。
その次の日。
もう終業間近という頃。
不謹慎な気がして、死んだ人のことをあれこれ聞けないでいると、所長の方
から話しかけてきた。
「あなた見えるんでしょう」
ドキっとした。事務所には俺と所長しかいなかった。
「私はね、見えるわけじゃないけど、そこにいるってことは感じる」
所長は優しい声で言った。
そういえば、この人はあの師匠の知り合いなのだった。
「じゃあ、昨日手を合わせていたのは」
「ええ。でもあれはいつでもする私の癖ね」
そう言ってそっと手を合わせる仕草をした。
俺は不味いかなと思いつつも、どうしても聞きたかったことを口にした。
「あの、夜中に人のいないベッドからナースコールが鳴るって、本当にあった
んですか」
所長は溜息をついたあと、答えてくれた。
「あった。仲間からも聞いたし。私自身も何度もあるわ。でもそのすべてが
おかしいわけでもないと思う。計器の接触不良で鳴ってしまうことも確かに
あったから。でもすべてが故障というわけでもないのも確かね」
「じゃ、じゃあこれは?」
と所長の口が閉じてしまわないうちに俺は今までに聞いた噂話をあげていった。
所長は苦笑しながらも、一々「それは違うわね」「それはあると思う」と丁寧
に答えてくれた。
今考えれば、こんな興味本位なだけの下世話で失礼な質問をよく並べられた
ものだと思う。しかしたぶん所長は、師匠から俺を紹介された時、なにか師匠
に含められていたのではないだろうか。
ところが、ある質問をしたときに所長の声色が変わった。
「それは誰から聞いたの?」
俺は驚いて思わず「済みません」と謝ってしまった。
「謝ることはないけど、誰がそんなことを言ったの」
所長に強い口調でそう言われたけれど、俺は答えられなかった。
どんな質問だったのか、はっきり思い出せないのだが、この病棟に関する怪奇
じみた噂話だったことは確かだ。
不思議なことに、その訪問看護ステーションのバイトを止めてすぐに、この噂
についての記憶が定かでなくなった。
だがその時ははっきり覚えていたはずなのだ。ついさっき自分でした質問なの
だから当たり前であるが。しかし誰からその噂を聞いたのかはその時も思い
出せなかった。ナースの誰かだったか。それともPTか、OTか。病院の
職員か・・・・・・
所長は、穏やかではあるが強い口調で「忘れなさい」と言うと帰り支度を
始めた。
俺は一人残された事務所で、いよいよ切羽詰ったレセプト請求の仕上げと格闘
しなければならなかった。やたらと浮き足立ってしまった心のままで。
泣きそうになりながら、減らない書類の山に向かってひたすら手を動かす。
夜蝉も鳴き止んだ静けさの中で一人、なにかとても恐ろしい幻想がやってくる
のを必死で振り払っていた。
よりによって、次の日は10日の締め切りだった。どんなに遅くなってもレセ
プトを終わらせなくてはならない。
チッチッチッ
という時計の音だけが部屋に満ちて、俺はその短針の位置を確認するのが怖
かった。多分日付変わってるなぁ、と思いながら段々脳みその働きが鈍くなって
いくのを感じていた。
いつのまにウトウトしていたのか、俺はガクンという衝撃で目を覚ました。
意識が鮮明になり、そして部屋には張り詰めたような空気があった。
なぜかわからないが、とっさに窓を見た。
その向こうには闇と、遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと偏在して
いるだけだった。
次にドアを見た。なにかが去っていく気配があった気がした。
そして俺の頭の中には、今日所長に質問した中にはなかった、奇怪な噂が新た
に入り込んでいた。
遠くから蝿の呻くような音がする。
「誰に聞いたのか」
とは、そういうことなのか。
『誰も言うはずがない話』
あるいは、『所長以外、誰も知っているはずがない話』
たとえば、所長が最期を看取った人の話・・・・・・
そんな話を俺がしたら、今日のような態度になるだろうか。
そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。今、闇に消えたような気配の主だろうか。
生々しい、そしてついさっきまでは知らなかったはずの奇怪な噂が頭の中で渦
を巻いている。
俺はここから去りたかった。
でも絶対無理だ。
今あのドアを開けて、暗い廊下に出て、人の居ない病室を通り、狭い階段を
降り、霊安室の前を行くのは。
俺はブルブルと震えながら、このバイトを引き受けたことを後悔していた。
廊下の闇の中に、なにかを囁きあうような気配の残滓が漂っているような気がする。
それからどれくらい経ったのか。
ふいに静寂を切り裂くような電話のベルが鳴った。
心臓に悪い音だった。
でも、生きている人間側の音だという、そんな意味不明の確信にすがりつくよ
うに受話器をとった。
「もしもし」
「よかったー。まだいた。ねえ、そこに○○さんのカルテない?」
聞き覚えのある声がした。ステーションのナースの一人だった。
「すっごく悪いんだけど、今○○さんの家から連絡があって、危篤らしいから、
ほんと悪いんだけど今すぐカルテ持って○○さんの家に来てくれない?
私もすぐ行くけど、そっち寄ってたら時間かかりそうだから」
俺は「はい」と言って、すぐにカルテを持って駆け出した。
ドアを開けて、廊下を抜けて、階段を降りて、霊安室の前を通って、生暖かい
夜風の吹く空の下へ飛び出した。
所詮は臨時の事務職だ。
でもその日、人の命に関わる仕事をしたという確かな感触があった。
鬱々と、下を向いてばかりでなくてよかった。
人の死を、興味本位で語るばかりじゃなくてよかった。
こんな、夜の緊急訪問はよくあることらしい。でも俺にとって、特別な意味
がある気がした。
だから、カルテを届けたあとまた事務所に帰ってレセプト請求をすべて完成
させるのに、全精力を傾けられたのだろう。
次の日、あまり寝てない瞼をこすりながら出勤すると、所長が「お疲れ様。
昨日は大変だったわね」と話かけて来た。
俺は、「いえ、このくらい」と答えたが、所長は首を振って「やっぱりあなた
には向いてない職場かもね」と優しい声で言うのだった。
俺はそのあと、2週間くらいでそのバイトを止めた。
いい経験になったとは思う。
でも、人の死をあれほど受け止めなければならない職場は、やはり俺には向
いてないのだろう。
俺があの夜、カルテを届けた人はその日の朝に亡くなった。
そしてその死を看取ったナースは、すぐに次の訪問先へ向かった。また、その
肩に死者の一部を残したままで。
|
その噂をはじめに聞いたのは、ネット上だったと思う。
地元系のフォーラムに出入りしていると、虚々実々の噂話をたくさん頭に
叩きこまれる。どれもこれもくだらない。
その中に埋もれて、「黒い手」の噂はあった。
黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても
「バッカじゃないの」
上記の噂を話したところの、ある人の評である。
オカルト道の師匠にそんなあっさり言われると、がっかりする。
「まあ不幸の手紙の亜種だな。どんなことがあっても、って念押ししてる
ってことは、1週間のあいだになにか起こりますよってことだろ」
チェーンメールが流行りはじめた頃だったが、「××しないと不幸になる」
というテンプレートなものとは少し毛色が違う気がして僕の印象に残ってい
たのだが、師匠はこういうのはあまり好きではないようだった。
しかし、しばらくのあいだ僕の頭の片隅に「黒い手」という単語がこびり
ついていた。
ありがちなチェーンメールと一線を画すのは、そのスタート契機だ。
「このメールを読んだら」
ではなく、
「黒い手に出会えたら」
つまり、話を聞いた時点で強制的にルールの遵守を求められるのではなく、
契機が別に設定されているのだ。
怖がろうにも、その契機に会えない。
「黒い手に出会えたら」
僕は出会いたかった。
黒い手を手に入れた。
という一文をあるスレッドで見たとき、僕の心は逸った。
普段はいかない部屋に出入りしていたのは、「地元の噂」を語る場所だった
から。「黒い手」の噂を聞けるかも知れないという可能性のためだ。
マニアックなオカルト系フォーラムにどっぷり浸っていた僕には、少し程度
が低すぎる気がして敬遠していたのだが・・・・・・
「見せて見せて」
というレスがつき、しばらくして「いーよ」という返事があった。
その音響というハンドルネームの人物は、何度かオフ会を仕切ってるような
行動派らしく、「じゃ、明日の土曜日にいつものトコで」という書き込みで
「黒い手オフ」が決定した。
新参者の僕は慌てて過去ログを読み返し、いつものトコが市内のファミレス
であることを確認すると「初めてですけど行ってもいいですか」と書き込んだ。
当日は、まだこういうオフ会というものにあまり慣れていないせいもあって
緊張した。
遅れてしまってダッシュで店内に入ると、目印だという黒系の帽子で統一
された一団が奥のスペースに陣取っていた。
「ちーす」という挨拶に「すみません」と返して席につくと、テーブルの周囲
に居並ぶ面々に対して妙な気まずさを感じた。
ネット上の書き込みを見ていた時から想像はついていたが、やはり若い。
たぶん全員中学生から高校生くらいだろう。僕もついこのあいだまで高校生
だったとはいえ、1コ下2コ下となると別の生き物のような気がする。
先輩風を吹かしたりというのは苦手なので、ここでは年上だとバレないように
しようと心に決めた。
「で、これなんだけど」
そう言って全身黒でキメた16,7と思しき女の子が、足元から箱のような
ものを出してきてテーブルに乗せた。
おおー。
という声があがる。
音響というHNのその子は、もったいぶりもせずテーブルの真ん中まで箱を
押し出した。
「ガッコの先輩にもらったんだけど、なんか、持ってるだけで願いがかなう
ってさ。誰かいらない?」
え? くれるのかよ。
他の連中も顔を見回している。
「黒い手って、ほんとに黒いの? ミイラとか?」
軽い調子で中の一人が箱の蓋を取ろうとした。
その瞬間、僕の右隣に座っていた面長の三つ編み女がその手を凄い勢いで掴んだ。
「やめて。これヤバイよ」
真剣な目で首を振っている。
「ッたいわね、なにマジになってんの」
掴まれた手を振りほどいて睨みつけると、乗り出した体を引っ込める。
それからなんとなく、沈黙が訪れた。
霊が通った。
誰かが呟いて、「えー、天使が通ったって言わない?」という反応があり、
しばらく箱から目をそむけるように「霊VS天使」論争が続いたあと、音響が
言った。
「で、誰かいらない?」
またシーンとする。
こんなのが大好きな連中が集まっているはずなのに、なんだこの体たらくは。
黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても
この噂の意味がわからないほどバカではないということか。
ただそれも、この噂が本物でかつこの箱の中身が本物だったらという前提条件
つきだ。
根性なしどもめ。僕は違う。
なぜ山に登るのかといえば、当然そこに山があるからだった。
「僕がもらっていいですか」
全員がこっちを見て、それから音響を見る。
「いいよ。かっくいー。ちなみに箱ごとね。開けたら駄目らしいから」
音響は僕の方に箱を押し出し、ニッと笑った。
「1週間持ってないといけないんだって。でも結婚指輪でも買ってやれば
そんなにかかんないかもよ」
その後は普通のオフ会らしく、くだらなくて怠惰で無意味な時間をファミ
レスで過ごした。
誰も箱のことには触れなかった。それが目的で来た連中のはずなのに。
解散になったとき、箱を抱えて店を出ようとした僕に、さっきの三つ編み女
がすり寄ってきた。
「ねえ、やめたほうがいいよ。それほんとやばいよ」
なんだこの女。霊感少女きどりなのか。
引き気味の僕の耳元に強引に耳を寄せてささやく。
「わたし、人に指差されたらわかるんだよね。たとえ見えてない後ろからでも。
そんな感覚たまにない? わたしの場合嫌な人に指差されたらそれだけ嫌な
感じがする。そんでさっき箱が出てきたとき半端なくゾワゾワ来た。こんな感じ、
今までもなかった」
そういえば、縦長の箱が置かれたときその片方の端がこの女の方を向いていた。
箱の中で、黒い手が指を差しているというのだろうか。
そう思っていると、女の妙に冷たい息が耳に流れ込んできた。
「それがね、指差されてるのは箱からじゃないのよ。背中から、誰かに」
そこまで言うと三つ編み女は息を詰まらせて、逃げるように去っていた。
店の中で一人残された僕は、箱を抱えたまま棒立ちになっていた。
コト
という乾いた音がして、箱の中身の位置がずれた。
僕は生唾を飲み込んだ。
なにこの空気。もしかして、あとで後悔したりする?
ふと視線を感じると、店の外からガラス越しに黒のワンピース姿の音響がこっち
を見ていた。
アパートの部屋に帰りつき、箱をあらためて見ていると気味の悪い感覚に襲
われる。
黒い手の噂はつい最近始まったはずなのに、この箱は古い。古すぎる。
煤けたような木の箱で、裏に銘が彫ってあってもおかしくないた佇まいである。
この中に本当に黒い手が入っているのだろうか。
だいたい噂には、箱に入ってるなんて話はなかった。
音響と名乗るあの少女に担がれたような気もする。でも可愛かったなぁ。と、
思わず顔がにやける。たぶん今日はオカルト好きが集まったのではなくて、
少なくとも男どもは音響めあてで参加したのではないかという勘繰りをしてしまう。
そうでなければ、開けろコールくらい起きるだろう。黒い手が見たくて集まった
はずならば。
僕は箱の蓋に手をかけた。
その瞬間に、さまざまな思いやら感情やらが交錯する。
まあ、今でなくてもいいんじゃない。
1週間あるんだし。
僕は、つまり、逃げたのだった。
そして箱を本棚の上に置くと、読みかけの漫画を開いた。
それから2日間はなにごともなく過ぎた。
3日目、師匠と心霊スポットに行って、またゲンナリするような怖い目に
あって帰って来た時、部屋の扉を開けるとテーブルの上に箱が乗っていた。
これは反則だ。
部屋は安全地帯。このルールを守ってもらわないと、心霊スポット巡りなんて
できない。
ドキドキしながら、昨日本棚からテーブルの上に箱を移したかどうか思い出
そうとする。
無意識にやったならともかく、そんな記憶はない。
平静を装いながら僕は箱を本棚の上に戻した。深く考えない方がいいような気
がした。
4日目の夜。
ちょっと熱っぽくて、早々に布団に入って寝ていると不思議な感覚に襲われた。
極大のイメージと極小のイメージが交互にやってくるような、凄く遠くて凄く
近いような、それでいて主体と客体がなんなのかわからないような。
子供の頃、熱が出るたび感じていたあの奇妙な感覚だった。
そんなトリップ中に、顔の一部がひんやりする感じがして、現実に引き戻された。
目を開けて天井を見ながら右の頬を撫でてみる。
そこだけアイスクリームを当てられたように、温度が低い気がした。冷え性
だが、頬が冷えるというのはあまり経験がない。
痒いような気がして、しきりにそこを撫でていると、その温度の低い部分が
ある特徴的な形をしていることに気づいた。
いびつな5角形に、棒状のものが5本。
僕は布団を跳ね飛ばして、起き上がった。
キョロキョロと周囲を見回し、箱の位置を確認する。
箱の位置を確認するのに、どうして見回さなければならないのか、その時は
おかしいと思わなかった。
本棚の上にあった。置いた時のままの状態で。
けれど、僕の頬に触ったのは手だった。それもひどく冷たい手の平だった。
思わず箱の蓋に手をかける。そしてそのままの姿勢で固まった。
昔から「開けてはいけない」と言われたものを開けてしまう子供ではなかった。
触らぬ神に祟りなしとは、至言だと思う。でも、そんな殻を破りたくて、師匠
の後ろをついていってるのじゃないか。
そうだ。それに箱を開けたらダメだとか、そんなことは噂にはなかった。音響
が言っているだけじゃないか。
そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。
僕はそれを思い出したとたんに、躊躇なく箱の蓋を取り払った。
中にはガサガサした紙があり、それにつつまれるように黒い手が1本横たわっ
ている。
マネキンの手だった。
ハハハハと思わず笑いがこみ上げてくる。こんなものを有難がっていたなんて。
手にとって、かざしてみる。
なんの変哲もない黒いマネキンの手だ。左手で、それも指の爪が長めに作られ
ているところを見ると、女性用だ。案の定だった。
あの時、音響は確かに言った。「結婚指輪でも買ってやれば・・・・・・」
つまり、左手で、女性なのだった。
「開けるな」と言っておきながら、音響自身は箱を開けて中を見ている。そう
確信したから僕も開けられた。
なんだこのインチキは。
僕はマネキンの手を放り出して、パソコンを立ち上げた。
今頃あのスレッドでは担がれた僕を笑っているだろうか。
ムカムカしながらスレッド名をクリックすると、予想外にも黒い手の話は全然
出てきてなかった。
すでに彼らの興味は次の噂に移っていた。音響はなんと言っているだろうと
思って探しても、書き込みはない。過去ログを見ても、あれから一度も書き込ん
でないようだ。
逃げたのか、とも思ったがなにも彼女に逃げる理由はない。俺に追及されても
「バーカバーカ」とでも書けばいいだけのことだ。
それにもともと音響は、常連の中でも出現頻度が高くない。
週に1回か多くても2回程度の書き込みペースなのだ。あれから4日しかたって
いないので、現れてなくても当然といえば当然なのだった。
ふいに、マウスを持つ手が固まった。
週に1回か2回の書き込み。
心臓がドキドキしてきた。
去っていった恐怖がもう一度戻ってくるような、そんな悪寒がする。
気のせいか、耳鳴りがするような錯覚さえある。
過去ログをめくる。
『黒い手を手に入れた』日曜日
僕が目に留めた音響の書き込みだ。
そしてその次の音響の書き込みは・・・・・・
『いーよ』金曜日
5日開いている。
ちょうどそんなペースなのだ。だから、おかしい。
その翌日の土曜日に音響は黒い手を僕にくれた。
だから、おかしい。
音響が黒い手を手に入れてから、その土曜日で6日目なのだ。
黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても
信じてないなら、持っていてもいいはずだ。あとたった1日なんだから。
それでなにも起きなければ、「やっぱあれ、ただの噂だった」と言えるのだから。
信じているなら、持っていなければならないはずだ。あとたった1日なんだから。
それで願いがかなうなら。
どうしてあとたったの1日、持っていられなかったんだろう。
頭の中に、箱を持った僕をファミレスのガラス越しにじっと見ていた音響の姿
が浮かぶ。当時そんなジャンルの存在すら知らなかったゴシックロリータ調の
格好で、確かにこっちを見ていた。その人形のような顔が、不安げに。
ただのマネキンの腕なのに。
僕は知らず知らずのうちに触っていた右頬に、ギクリとする。忘れそうになって
いたが、さっきの冷たい手の感覚はなんなのだ。
振り返ると、箱はテーブルの上にあった。黒い手は箱の中に、そして蓋の下に。
一瞬びくっとする。
僕はゾクゾクしながら思い出そうとする。「放り出した」というのはもちろん
レトリックで、適当に置いたというのが正しいのだが、僕は果たして黒い手を
箱に戻したのだったか。
箱はぴっちりと蓋がされて、当たり前のようにテーブルに横たわっている。
思い出せない。無意識に、蓋をしたのかも知れない。
でも確かなことは、僕にはもうあの蓋を開けられないということだ。
徐々に冷たさが薄れかけている頬を撫でながら生唾を飲んだ。5角形と5本の棒。
1本だけ太くて5角形の辺1つに丸々面している。親指の位置が分かればどっち
かくらいは分かる。
その頬の冷たい部分は右手の形をしていた。
次の日、つまり5日目。
僕は師匠の家へ向かった。
音響は5日目までは持っていた。正確には6日目までだが、少なくとも5日目
までは持っていられた。
僕はこれから起こることが恐ろしかった。
多分、箱の位置が変わったり、頬を撫でられたりといったことは文字通り触り
に過ぎないのではないかという予感がする。
こんなものはあの人に押し付けるに限る。
師匠の下宿のドアをノックすると、「開いてるよ」という間の抜けた声がし
たので「知ってますよ」と言いながら箱を持って中に入る。
胡坐を組んでひげを抜いていた師匠が、こちらを振り向いた。
「かえせよ」
え?
何を言われたかよくわからなくて聞き返すと、師匠は「俺いまなにか言ったか?」
と逆に聞いてくる。
よくわからないが、とりあえず黒い手の入った箱を師匠の前に置く。
なにも言わないでいると、師匠は「はは〜ん」とわざとらしく呟いた。
「これかぁ」
さすが師匠。勘が鋭い。
しかし続けて予想外のことを言う。
「俺の彼女が、『逃げろ』って言ってたんだが、このことか」
その時はなんのことかわからなかったが、後に知る師匠の彼女は異常に勘が
鋭い変な人だった。
「で、なにこれ」
と言うので、一から説明をした。なにも隠さずに。
普通は隠すからこそ次の人に渡せるのだろう。しかしこの人だけは隠さない
ほうが、受け取ってくれる可能性が高いのだった。
ところがここまでのことを全部話し終えると、師匠は言った。
「俺、逃げていい?」
そして腰を浮かしかけた。
僕は焦って「ちょっと、ちょっと待ってください」と止めに入る。この人に
まで見捨てられたら、僕はどうなってしまうのか。
「だけどさぁ、これはやばすぎるぜ」
「お払いでもなんでもして、なんとかしてくださいよ」
「俺は坊さんじゃないんだから・・・・・・」
そんな問答の末、師匠はようやく「わかった」と言った。
そして「もったいないなあ」と言いながら押入れに首をつっこんでゴソゴソ
と探る。
「お払いなんてご大層なことはできんから、効果があるかどうかは保障しな
いし、荒療治だからなにか起こっても知らんぞ」
そんなもったいぶったことを言いながら、手には朽ちた縄が握られていた。
「それ、神社とかで結界につかう注連縄ですか」と問いかけるが、首を振ら
れた。
「むしろ逆」
そう言いながら師匠は、黒い手のおさまった箱をその縄でぐるぐると縛り始めた。
「富士山の麓にはさぁ。樹海っていう、自殺スポットていうかゾーンがある
だろ。そこでどうやって死ぬかっていったら、まあ大方は首吊りだ。何年も、
へたしたら何十年も経って死体が首吊り縄から落ちて、野ざらしになってると
そのまま風化して遺骨もコナゴナになってどっかいっちまうことがある。
でも縄だけは、ぶらぶら揺れてんだよ。いつまで経っても。これから首を吊
ろうって人間が、しっかりした木のしっかりした枝を選ぶからだろうな」
聞きながら、僕は膝が笑い始めた。
なに言ってるの、この人。
「一本じゃ足りないなあ」
また押入れから同じような縄を出してくる。
キーンという耳鳴りがした。
「どうやって手に入れたかは、聞くなよ」
こちらを見てニヤっと笑いながら、師匠は箱を見事なまでにぐるぐる巻きに
していった。
そのあいだ中、師匠の部屋の窓ガラスをコンコンと叩く音がしていた。
絶対に生身の人間じゃないというのは、師匠に聞くまでもなくわかる。
わーんわーんという羽虫の群れるような音も、天井のあたりからしていた。
師匠はなにも言わず、黙々と作業を続ける。
そのうちドアをドンドンと叩く音が加わり、電話まで鳴り始めた。
僕は一歩も動けず、信じられない出来事に気を失いそうになっていた。
師匠が今しようとしていることに触発されて、騒々しいものたちが集まって
きているような、そんな気がする。
耳を塞いでも無駄だった。
ギィギィというドアが開いたり閉まったりするような音が加わったが、恐る
恐る見てもドアは開いてはいない。
「うるせぇな」
師匠がボソリと言った。
「おい、なにか喋ってろ。なんでもいいから。こんなのは静かにしてるから
うるせぇんだ。静寂が耳に痛いって、あるだろう。あれと同じだ」
それを聞いて、僕は「そうですね」と答えたあと何故か九九を暗唱した。
とっさに出たのだがそれだったわけだが、いんいちがいちいんにがに・・・・・・
と口に出していると、不思議なことにさっきまであんなに存在感のあった
異音たちが、一瞬で世界を隔てて遠のいていくようだった。
しかしその中で何故か電話は甲高く鳴り響き続けていた。
「これは本物じゃないですか」
と言って俺が慌てて取ろうとすると、師匠が「出るな」と強い口調で制した。
その瞬間に、電話は鳴り止んだ。
俺は受話器を上げようとした格好のままで固まり、冷や汗が額から流れ落ちた。
「さあ、できたぞ。どこに捨てるかな」
箱は縄で完全にがんじがらめにされ、ところどころに珍しい形の結び目が
できている。
思案した結果、師匠の軽四で近くの池まで行くことにした。
僕が助手席で箱を抱えて、ガタガタと揺られながら「南無阿弥陀仏」やら
「南無妙法蓮華経」やら、知っているお経をでたらめに唱えていると、
あっという間に池についた。
そこで不快な色をした濁った水の中に二人してせぇの、と勢いをつけて投げ
入れた。ボチャンと、一番深そうな所へ。
石を巻きつけていたので箱はゴボゴボと空気を吐き出しながら沈んでいった。
その石も耳を塞ぎたくなるような逸話を持っていたらしいが、僕はあえて聞
かなかった。
すべてを終えてパンパンと手を払いながら師匠が言った。
「問題はもう1本の手だけど、まあ本体はやっつけた方みたいだから、大丈
夫だろう」
自動車のエンジンをかけながら、「それにしても」と続ける。
「都市伝説が、実体を持ってたら反則だよなぁ。正体がわからないから怖い
んじゃないか」
僕にはあの箱の意味も黒い手の意味もわからなかったので、なにも言えなかった。
「まあこれで都市伝説としては完成だ。実存が止揚してメタレベルへ至った
わけだ。黒い手に出会えたら、か。確かにちょっとクールだな。ところで」
師匠がこっちを見た。
「おまえはなにが願いだったんだ」
あ、と思った。
『黒い手に出会えたら願いがかなう』
全然意識してなかった。ひたすら巻き込まれた感が強くて、そんな前提を忘れ
ていた。
「もう関係ないですよ」
そう言うと師匠は「ふーん」と鼻で応えて前を向いた。
それからちょうど1週間目の夜。
そういえばあれ、どうなった?
という書き込みが例のスレッドにあった。
「まだ生きてるかー?」
との問いかけに「なんとか」と書き込んでみる。
「願いはかなった?」
「なんにも起きないよ」
音響は現れない。
「だれか箱いる?」
「だってガセねたじゃん」
・・・・・・
もうこのスレッドに来ることもないだろう、と思う。ウインドウを閉じよう
とすると、
「ほんとに、ほんとになにもなかった?」
しつこく聞いてくるやつがいた。僕に警告してくれた三つ編み女だろうと
思われる。
「知りたかったら、黒い手に出会えばいい」
そう書いて、窓を閉じた。
それから、ただの一度も黒い手の噂を聞かなかった。
|
大学1回生の秋。
オカルト系ネット仲間の京介さんの部屋に、借りていた魔除けのタリス
マンを返しに行ったことがあった。
京介さんは女性で、俺より少し年上のフリーターだった。黒魔術などが
好きな人だったが少しも陰鬱なところがなく、無愛想な面もあったがそ
の清潔感のある性格は、一緒にいて気持ちが良かった。
その日は、買ったばかりの愛車をガードレールに引っ掛けたという間抜
けぶりを冷やかしたりしていたのだが、これから風呂に入ってバイトに
行くからという理由であっさりと追い払われた。このところオフ会でも
会わないし、なんだか寂しかったが仕方がない。
目の前でドアを閉められる時、何度かお邪魔したこともある部屋の中に
わずかな違和感を感じたのは、気のせいではなかったと思う。
なにか忘れているような。
そんなぼんやりとした不安があった。
それから1週間はなにごともなかった。
自堕落な生活で、すっかり曜日の感覚がなくなっていた俺が、めずらしく
朝イチから大学の授業に出ようと思い、家を出た日のこと。
講義棟の前に鈴なりのはずの自転車が、数えるほどしかなかったあたりか
ら予感はされていたことだが、掲示板の前で角南さんという友達に会い
「今日は祝日だぞ」とバカにされた。だったらそっちもなんで来てるんだ
よ、と突っ込むと笑っていたが、急に耳に顔を寄せて「昨日歩いてたのだれ?
やるじゃん」と囁いてきた。
なんのことかわからなかったので、「どこで?」と言ってみると「うわー
こいつ」と肘うちを喰らい、意味のわからないまま彼女は去っていった。
俺は首を捻りながら講義棟を出た。
昨日はたしか、駅の地下街を歩いたはずだ。角南さんはそのあたりの店で
バイトしているはずなので、そこで見られたようだ。
しかし昨日俺は一人だった。だれかと歩いていたはずなんてない。
たまたま同じ方向に進んでいた人を、連れだと思われたのか。
なぜか急に背筋が寒くなってきて振り返ったが、閑散としたキャンパスが
広がっているだけだった。
俺は自転車をとばして、逃げるようにアパートへ引き返した。
そのあいだ後ろからだれかがついて来ているような気がして、ときどき振
り向きながらペダルをこいだ。
なぜかだれともすれ違わなかった。
俺のアパートは学校から近いとはいえ、その途中に通行人の一人もいない
なんて、なんだか薄気味が悪い。
駐輪場に自転車を止め、階段を登り、アパートの部屋のドアを開ける。
学生向けのたいして広くもない部屋は、玄関からリビングの奥まで見通せる
つくりになっていた。
はずだった。
のに。
キッチンに俺がいた。
俺は無表情で、こちらに目も向けずトイレのドアを開けるとスッと中に消えた。
パタンとドアが閉まる。
現実感がない。
玄関で俺は靴も脱がず立ち尽くしていた。そして今見たものを反芻する。
鏡ではもちろんない。生きて動いている俺が、トイレのドアを開けて中に入っ
た。という、それだけのことだ。それを俺自身が見ているという異常な事態で
さえなければ。
怖い。
この怖さをわかってもらえるだろうか。
思わず時計を見た。まだ朝のうちだ。部屋の窓のカーテン越しに射す太陽の
光が眩しいくらいだ。
だからこそ、この逃げようのない圧迫感があるのだろう。
夜の怖さは、明かりをつけることで。あるいは夜が明けることで克服されるか
も知れない。
しかし朝の部屋が怖ければ、どこに救いがあるというのか。
部屋にはなんの音もない。
トイレからもなんの気配も感じられない。
おそらく俺は10分くらい同じ格好で動けなかった。そして今のはなんだろう
今のはなんだろうと、呪文のように頭の中で繰り返し続けた。
見なかったことにして、とりあえずコンビニでも行こうかと、どれほど思ったか。
でも逃げないほうがいい。なぜかそう決めた。
たぶん、幻覚だからだ。
というか、幻覚じゃないと困る。
俺はオラァと大きな声を出すと、ズカズカと部屋の中へ進み躊躇なくトイレの
ドアを開け放った。
開ける瞬間にもオラァとわけのわからない掛け声をあげた。
中にはだれもいなかった。
ほっとした、というよりオッシャア、と思った。
念のためにトイレの中に入ろうとしたとき、視線の端で何かが動いた気がした。
閉めたはずの玄関のドアが開いていて、その隙間から俺の顔が覗いていた。
再び自転車を駆って、休日の道を急ぐ。
今日は朝イチで大学の講義に出て、清清しい気持ちになっているはずだったの
に、なんでこんな目にあっているのだろう。
俺はさっきまで自分の部屋のトイレに立てこもっていた。中から鍵を掛けて、
ノブをしっかり握っていた。俺が玄関から入ってきたら、どうしよう。オラァ
とかいう声が外から聞こえたら、失神していたかも知れない。
どれほど中にいたのかわからないが、とにかく俺はついにトイレからビクビク
と出てきて、電話をした。
こういう時にはやたら頼りになるオカルト道の師匠にだ。
しかし出ない。携帯にもつながらない。
焦った俺は次に京介さんへ電話をした。
「はい」
という声が聞こえたときは、心底嬉しかった。
そしてつい1週間まえにも通った道を、数倍の速度で飛ばした。
京介さんは、住んでいるマンションのそばにある喫茶店にいるということだ
った。
店のガラス越し、窓際の席にその姿を見つけたときには、俺は生まれたばか
りの小動物のような気持ちになっていた。
ガランガランという喫茶店のドアの音に振り向いた京介さんが、「ヨオ」と
手をあげる席に走って行き、俺は今日あったことをとにかく捲くし立てた。
「ドッペルゲンガーだな」
あっさりと京介さんは言った。
「自分とそっくりな人間を見る現象だ。まあほとんどは勘違いのレベルだろ
うが、本物に会うと死期が近いとか言われるな」
ドッペルゲンガー。
もちろん聞いたことがある。そうか。そう言われれば、ドッペルゲンガー
じゃん。
不思議なもので、正体不明のモノでも名前を知っただけで奇妙な安心感が生
まれる。むしろ、そのために人間は怪異に名前をつけるのではないだろうか。
「おまえのはどうだろうな。白昼夢でも見たんじゃないのか」
そうであってほしい。
あんなものにうろちょろされたら、心臓に悪すぎる。
「しかし気になるのは、その女友達が見たというおまえだ。おまえとドッペ
ルゲンガーの二人を見たような感じでもない。話しぶりからするとおまえ
と一緒に歩いていたのは女だな。本当に心あたりがないのか」
頷く。
「じゃあ、ドッペルガンガーがだれか女と歩いていたのか。おまえの知らな
いところで」
「こんど聞いておきます。角南さんがどこで俺を見たのか」
俺は注文したオレンジジュースを飲みながらそう言った。そう言いながら、
京介さんの様子がいつもと違うのを訝しく思っていた。
あの、飄々とした感じがない。
逼迫感とでもいうのか、声がうわずるような気配さえある。
ドッペルゲンガーだな、と言ったその言葉からしてそうだった。
「どうしたんですか」
とうとう口にした。
京介さんは「うん?」と言って目を少し伏せた。
そして溜息をついて、「らしくないな」と話し始めた。
京介さんがもう一人の自分に気づいたのは小学生のときだった。
はじめは、ふとした拍子に視線の端に映る人間の顔を見てオバケだと思った
という。
視界のいちばん隅。そこを意識して見ようとしても見えない。なにかいる、
と思ったのはあるいはもっと昔からだったかも知れない。
でも視線の端の白っぽいそれが人の顔だとわかり、オバケだと思ったすぐあと、
「あ、自分の顔だ」と気づいてしまった。
それは無表情だった。
立体感もなかった。
そこにいるような存在感もなかった。顔をそちらに向けると、自然とそれも
視線に合わせて移動した。まるで逃げるように。
いつもいるわけではなかった。
けれど疲れたときや、なにか不安を抱えているときにはよく見えた。
怖くはなかった。
中学生のとき、ドッペルゲンガーという名前を知った。
その本には、ドッペルゲンガーを見た人は死ぬと書いてあった。
そんなのは嘘っぱちだと思った。
そのころには、それは顔だけではなかった。トルソーのように上半身まで見
えた。ただその日着ている自分の服と同じではなかったように思う。どうし
てそんなものが見えるのか、不思議に思ったけれどだれかに話そうとは思
わなかった。自分と、自分だけの秘密。
高校生のとき、自己像幻視という病気を知った。精神の病気らしい。
嘘っぱちだとは思わなかった。ドッペルゲンガーにしても、自己像幻視に
しても、結局自分にしか見えないなら同じことだ。そういう病気だとしても、
同じことなのだった。
そのころには、全身が見えていた。
視線の隅にひっそりと立つ自分。
表情はなく、固まっているように動かない。そして、それがいる場所をだ
れか他の人が通ると、まるでホログラムのように透過してしまい揺らぎも
なくまたそのままそこに立っているのだった。
全身が見えるようになると、それからは特に変化はないようだった。
相変わらず疲れたときや、精神的にピンチのときにはよく見えた。だからと
いって、どうとも思わない。ただそういうものなのだと思うだけだった。
それが、である。
最近になって変化があらわれた。
ある日を境に、それの「そこにいる感じ」が強くなった。ともすればモノク
ロにも見えたそれが、急に鮮やかな色を持つようになった。そしてその立体
感も増した。だれかがそこを通ると「あ。ぶつかる」と一瞬思ってしまうほ
どだった。ただやはり他の人には触れないし、見えないのであった。
ところが、ある日部屋でジーンズを履こうとしたとき、それが動いた。
ジーンズを履こうとする仕草ではなく、意味不明の動きではあったが確かに
それの手が動いていた。
それから、それはしばしば動作を見せるようになった。けっして自分自身と
同じ動きをするわけではないが、なにかこう、もう一人の自分として完全な
ものなろうとしているような、そんな意思のようなものを感じて気味が悪く
なった。
相変わらず無表情で、自分にしか認識できなくて、自分ではあるけれど少し
若いようにも見えるそれが、はじめて怖くなったという。
京介さんの独白を聞き終えて、俺はなんとも言えない追い詰められたような
気分になっていた。
逃げてきた先が、行き止まりだったような。そんな気分。
「ある日を境にって、いつですか」
なにげなく聞いたつもりだった。
「あの日だ」
「あの日っていつですか」
京介さんはグーで俺の頭を殴り、「またそれを言わせるのかこいつ」と言った。
俺はそれですべてを理解し、すみませんと言ったあとガクガクと震えた。
「どう考えても、無関係じゃないな」
おまえのも含めて。
京介さんは最後のトーストを口に放り込みコーヒーで流し込んだ。
俺はそのときには、京介さんの部屋へタリスマンを返しに行った時の違和感
の正体に気がついてしまっていた。
「部屋の四隅にあった置物はどうしたんです」
あの日、結界だと言った4つの鉄製の物体。
それが1週間前には部屋の中に見当たらなかった。
「壊れた」
その一言で、俺の蚤の心臓はどうにかなりそうだった。
「それって、」
しゃくり上げるように、俺が口走ろうとしたその言葉を京介さんが手で無理
やり塞いだ。
「こんなところでその名前を出すな」
俺は震えながら頷く。
「ドッペルゲンガーっていうのは、大きくわけて2種類ある。自分にしか見
えないものと、他人にも見えるもの。前者は精神疾患によるものがほと
んどだ。あるいは一過性の幻視か。そして後者はただの似てる人物か、あ
るいは生霊のような超常現象か。どちらにしても、異常な現象にしては合
理的な逃げ道がある。私が前者でおまえが後者だが、それが同じ出来事に
触れた二人に現れたというのは、しかし偶然にしては出来すぎだ」
つまり、あの人なわけですね。
俺は頭の中でさえ、その名前を想起しないように意識を上手く散らした。
「甘く見ていたわけじゃないんだが、まずいなこれは」
京介さんは眉間に皺を寄せてテーブルを指でトントンと叩いた。
俺は生きた心地もせず、ようやくぼそりと呟いた。
「こんなことならタリスマン、返すんじゃなかった」
その瞬間、京介さんが俺の胸倉を掴んだ。
「今なんて言った」
「だ、だからあの魔除けのなんとかいうタリスマンを返したのは失敗だった
って言ったんですよ。また貸してくれませんか」
なぜか京介さんは珍しく険しい形相で強く言った。
「なに言ってるんだ、おまえはタリスマンを返してないぞ」
俺はなにを言われているのかわからず、うろたえながら答える。
「先週返しにいったじゃないですか、ほら風呂入るから帰れって言われた
日ですよ」
「まだ持ってろって言ったろ?! あれをどうしたんだ」
「だから返したじゃないですか。だから今はないですよ」
京介さんは俺の胸元を触って確かめた。
「どこで無くした」
「返しましたって。受け取ったじゃないですか」
「どうしたっていうんだ。おまえは返してない」
会話が噛み合わなかった。
俺は返したと言い、京介さんは返してないと言う。
嘘なんか言ってない。俺の記憶では間違いなく京介さんにタリスマンを返し
ている。
そして少なくとも、いま俺が魔除けの類をなにも持っていないのは確かだった。
京介さんはいきなり自分のシャツの胸元に手を突っ込むと、三角形が絡み合っ
た図案のペンダントを取り出した。
「これを持っていろ」
それはたしか、京介さん以外の人が触ると力が失せるとか言っていたものでは
なかったか。
「よく見ろ。あれは六芒星で、これは五芒星」
そう言われればそうだ。
「とりあえずはこれで、もう一人のおまえにどうこうされることはないだろう。
だがなにが起こるかわからない。しばらく慎重に行動しろ。なにかあったら、
私か・・・・・・」
そこで京介さんは言葉を切り、真剣な表情で続けた。
「あの変態に連絡しろ」
あの変態とは、俺のオカルト道の師匠のことだ。京介さんは師匠とやたら反目
している。はずだった。
「まったく」と言って、京介さんは喫茶店の椅子に深く沈んだ。
そして「ドッペルゲンガーは」と繋いだ。
「死期が近づいた人間の前に現れるっていうのはさ、嘘っぱちだと思ってた。
ずっと前から見えてたのに、今まで生きてたわけだし。でも、違うのかも
知れない。ただの幻が、いまドッペルゲンガーになろうとしているのかも
知れない」
俺は死にたくない。まだ彼女もいない。童貞のまま死ぬなんて、生き物として
失格な気がする。
「その、もう一人の京介さんは今もいますか」
うつむき加減にそう聞くと、京介さんは頷いて長い指でスーッと側方の一点を
指し示した。
そこにはなにも見えなかった。
京介さんの指先は店内の一つの席をはっきり指していたのに、そこにはだれも
座っていなかった。
店内はランチタイムで混み始め、ほとんどの席が埋まってしまっているという
のに、そこにはだれも座っていないのだった。
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大学1回生の冬。
大学に入ってから出入りするようになったネットの地元系オカルト
フォーラムのオフ会に出たときのこと。
オフ会とは言っても、集まって居酒屋で飲む程度のものもあればディープ
なメンバーによる秘密の会合のようなものもあった。
その日も10人ほどの人間が集まって白木屋でオカルト話を肴に飲んだ後、
主要メンバーだけが夜更けにリーダー格の女性の部屋に集ったのだった。
そのリーダー格の女性とはColoさんという人で(なぜか頻繁にハンドルネーム
を変えるのでそのとき本当にColoだったかは自信がない)、俺のオカルト道
の師匠の彼女でもあった人だったので妙に可愛がられ、若輩の俺も濃い主要
メンバーの集まりに混ぜてもらうことがよくあったのだ。
秘密の会合では交霊実験まがいのことをすることもあったが、その日は
1次会の流れのままColoさんの部屋でダラダラと酒を飲んでいた。
山下さんという男の先輩が「疲れてくると人間の顔が4パターンしか見え
なくなくなる」という不思議な現象にまつわる怖い話をしていたところまでは
覚えている。
揺さぶられて目を覚ましたとき、部屋には3人しかいなかった。
Coloさん、みかっちさんという女性陣に俺。
「鏡占いに行こう」
まだ覚醒していない頭に、実にシンプルな構文が滑り込んできた。
なんでも市内に新しい占いの店がオープンしたのだが、それが一風変わった
「鏡を使った占い」をしているのだそうだ。
思わず腕時計を見たが、短針は12時を回っていた。
しかし二人は大丈夫、大丈夫、まだやってるというのである。
洗面所をかりて顔だけ洗っていると、Coloさんがそばにやってきてこう言った。
「困ってることがあるんでしょう。その店の鏡の中には、困難の正体が映るん
だって」
困っていること。
たしかにある。Coloさんやオフ会のメンバーには言っていないが、そのころ
俺はある女性に絡むやっかいごとの只中にいた。
霊感の強い人に立て続けに出会ったせいか心霊現象にはよく遭遇するように
なっていたのだが、異常な人間のほうがはっきり言ってたちが悪い。
その女性は、信じがたいことに市内の高校で「同級生の血を吸う」という事件
を起こして停学になったことがあるという。
興味をもって彼女のことを調べてまわっていたのが不興を買ったのか、その
ころ身の回りに不可思議な出来事が立て続いて起きていた。
もちろん彼女と関係があるとは限らない。
しかし最悪の事態を想定して生活するのは臆病者にとって当然だ。俺は知り合い
にもらった魔除けのタリスマンなるものまで肌身離さず持っていた。
Coloさんは何を考えているのかわからない独特の表情で、「たぶん、本物だから」
と言った。
Coloさんは勘が鋭い。大学のサークルの先輩でもある俺のオカルト道の師匠
には、そのやっかいごとを伝えていたが、恋人を巻き込みたくないのか師匠は
Coloさんには教えてないはずだった。
はずなのに、なにか勘づいているような気配がしていた。
3人で連れ立ってマンションの一室を出ると外はやたら寒く、俺は帰りま
せんかと何度か言ったが女性二人がノリノリだったため無視され、繁華街の
ほうへずんずんと歩を進めていった。
ところが、その途上でみかっちさんのPHSが鳴り、みかっちさんは電話口
で何事かわめいたかと思うと走ってどこかに行ってしまった。
俺は面くらうとともにどこかほっとして、「二人になったし、帰りましょう」
と言った。
しかしColoさんは首を振ると「来なさい」と有無を言わせぬ口調で俺を促した。
深夜1時近くになっていたが、まだ明かりの消えない華やかな通りから
すこし外れて、薄暗い裏通りを進むと「学生ローン」とかかれた看板のある
小さなビルの前に立ち止まった。
占いの店らしき看板も出ていないが、Coloさんはここだと言う。
そして地下へのびる階段をずんずんと降りて行くのだった。
地下には「占い」とだけかかれた怪しげなドアがあり、Coloさんは躊躇なく
押し開けて俺を手招きするのだった。
薄暗い店内には人の気配がなく、厚手の黒い布で遮蔽されたカウンターらしき
ところに、人の手が見えた瞬間は思わずビクッとした。
Coloさんがその布越しになにか話しかけると、白い手は店の奥を指差したかと
思うとスゥっと消えるように引っ込んでいった。
狭い店内は黒で統一され、天井の照明も黒い布で覆われていたので目が慣れる
までは鼻を摘ままれてもとっさにはわからなかったかもしれない。
「こっち」
とColoさんが俺の手をつかんで引っ張り、店の奥へと向かった。
奥には黒い布で隠されるようにしてドアがぽつんとあり、切れ目の入った
厚手の生地を掻き分けるように中を覗き込んだかと思うと、Coloさんは「ここ」
と言って俺を促すのだった。
流されるようにここまで来てしまったが、なんだかすべてが薄気味悪い。
『困難の正体が映る鏡』
そんなものが本当にあるんだろうか。とは思わなかった。
そんなものを見ていいんだろうか。
そう思ったのだった。
俺はColoさんに押し込まれるようにドアの中へ入った。
中はさっきまでよりも暗い。背後では切れ目の入った布が入り口を塞ぐように
バサバサともとに戻る音がした。
暗くても、部屋が狭いことは直感でわかる。その一番奥に人影が見えた。
ビクビクしながら近づくと、やはりそれは俺だった。
鏡面であることを確認しようとして手を伸ばそうとするが、一瞬頭がくらくら
するような感覚がして、それをすることは躊躇われた。なにか、説明しがたい
違和感のようなものがあった。
『困難の正体』
それは自分自身だ。
そんなことを悟らせるための店なのだろうかと、ふと思った。
全身が映っている大きな鏡の中の腕時計に目を落とすと、短針は1時のあたり
をさしていた。
そのときである。頭の中にくぐもったような耳鳴りがかすかに響き始めた。
まずい。
その音が、心臓を早鐘のように乱れさせる。
なにかが起こる。
そう思った俺は、ここから出ようとした。
そしてそのために振り向こうとしたとき、鏡の中の青ざめた自分の顔の端に
なにか黒いものが見えた気がした。
ドキドキしながら振り返るが、なにもなかった。暗い部屋が広がっているだけだ。
また鏡に向き直る。
こんどは顔の位置がずれて、顔の後ろに隠れていた黒いものが大きくなっていた。
それが動いた瞬間、叫び声をあげそうになった。
はっきりとわかる。それは人影だった。
鏡の中の二つの人影。
一つは鏡の前に立つ俺。
もう一つはその俺の後ろに立つ長い髪の人物。
さっき振り向いたときはいなかった。
そして予感がする。
もう一度振り向いても、誰もいないのではないだろうか。
困難の正体なんか、見ていいはずがなかった。
後悔がよぎる。
鏡の中で部屋の入り口付近から、長い髪の人影がこちらのほうへジリジリと
近づいてくる。
暗すぎて顔まではわからない。
俺は震えながら、掛けていた眼鏡をずらす。
鏡の向こう、自分の姿や、背後の壁などとともに、その人影も輪郭からぼやけ
てしまった。
幻覚ではない。
脳が見せる幻なら眼鏡をずらしてもぼやけない。
硬直する俺の背後へ、ぼやけたままの人影が揺れながら近づいてくる。
耳鳴りが強くなる。
そしてこの部屋に入り、鏡を見た瞬間に感じた違和感がもう一度強く迫ってくる
ような気がした。
振り向こうか。
振り向いたら、たぶんなにもいない。
そして部屋の入り口へ走って、外へ出る。
そうしようか。
心臓をバクバク言わせながらそんなこと思っていたが、けっして目は鏡の中から
逸らせないのだった。
そのとき、鏡の中の腕時計がまた目に入った。
短針は依然1時のあたりを指していた。その瞬間、違和感の正体に気がついた。
鏡の中で腕時計をしている手をじっと見つめる。
右側の手に腕時計をしていた。
鏡の中の俺が、右側の手に腕時計をしているのだった。
俺は固まったまま動けなくなる。
俺は普段、当然のことながら左手に腕時計をはめている。
鏡に映るときは、向かって左側の手にはめていないとおかしいではないか。
そしてその鏡の中の短針は、11時のあたりを指していないとおかしいはず
だった。
なんだこれは。なんだこれは。
という言葉が頭の中をぐるぐると回る。鏡に映る俺の体で、数少ない左右対称
ではないものが、すべてある結論を指し示していた。
心臓が、胸の右寄りの位置でドクドクと脈打っている気がした。
(こっちが鏡の中だ)
そんなことはあるはずがなかった。
しかし鏡の向こうの俺こそが、確かに正しい方の手に正しい時間を指す腕時計
をはめているのだった。
そして鏡の向こうの俺の背後に、髪の長い長身の人影が迫って来ていた。
こっちが鏡の中である、というありえない事態に、俺はうろたえる余裕もなく、
こっちが鏡の中であるという前提のもとに、今なにをすべきかを考えた。
混乱する頭を蝿の飛び回るような耳鳴りが掻き乱し、なにをしていいのか
わからない。
動けない。振り向けない。
鏡の向こうの俺の背後に、切れ長の瞳が見えた瞬間、思わず叫んでいた。
「どうしたらいいですか」
なぜそんなことを言ったのかわからない。外にいるだろうColoさんに助けを
求める叫び声としては奇妙だ。まるで、すべてを知ってる人に問いかける
ような・・・・・・
すると間髪入れずに答えが返ってきた。
「来てよかったでしょう」
鏡の向こうで部屋の入り口の黒い布がガサガサと揺れ、妙に現実感のない
Coloさんの声が聞こえてきた。
「どうしたらいいですか」
もう一度叫んだ。すぐ背後まで来ている、切れ長の瞳の黒目が一瞬膨張した。
「簡単。今すぐこの予知夢から覚めて、鏡占いに行こうという誘いを断る。
それだけ」
そんな言葉が、直接頭の中に響いた。
揺さぶられて目が覚める。
Coloさんのマンションの一室だった。
みかっちさんが目の前で机につっぷしているColoさんを続けて起こそうと
している。
俺は覚醒しきれない頭で、状況を把握する。
熟考するまでもなく、夢を見ていたらしい。
思わず腕時計を確認する。12時過ぎ。もちろん右手にはめている。
ひどい夢だった。
すべてはColoさんの予知夢だった、という設定らしい。
確かにColoさんは異常に勘がするどく、その勘の元になっているのはエドガー
ケイシーのような予知夢だと、師匠に聞いたことがある。
その話が原因で、こんな変な夢を見たのか。
ばかばかしいではないか。
だって今のは、Coloさんの見る夢ではなく、この俺の夢だったのだから。
「うーん」という声とともにColoさんが頭をイヤイヤする。
みかっちさんが無理やりその頭を揺さぶりながら、言った。
「おきろー。鏡占いに行くんでしょ」
その言葉を聞いて、俺は背筋に冷たいものが走った。
いや、待て。俺が寝ているときにきっとそんな話になったのだろう。それが
浅い眠りに入っていた俺の夢の表層に現れたにすぎない。
「あー、そうだっけ」
眠そうに頭をあげるColoさんを見て、俺は思わず言った。
「いや、俺もう帰りますし」
みかっちさんは「えー」と言って、不満を口にしたが取り合わなかった。
Coloさんは瞼をこすりながら、俺をじっと見ていた。
「なにか」とドキドキしながら言うと、「なんだっけ」と首を捻っている。
「あ、そうだ」
そう言って、Coloさんはみかっちさんに何か耳打ちをした。
するとみかっちさんは鼻で笑いながらPHSを取り出し、ベランダに出ながら
どこかに掛けはじめた。1、2分の後、みかっちさんはPHSに向かって
何事かわめきながらベランダから戻ってきて、慌しくColoさんの部屋を飛び
出していった。
呆然とする俺の前で、Coloさんが無表情のまま欠伸をひとつした。
結局その日は家に直帰し、なにごともなく一日が終わった。
後日、Coloさんの彼氏でもあるオカルト道の師匠のもとへその出来事の話を
しに行った。
気になってたまらなかったからだ。
一通り話を聞き終えると、師匠は唸りながら「巻き込まれたな」と言った。
以前、師匠からColoさんの体質について聞いてことがあったが、そのとき
「寝ているところをみせてやりたい。怖いぞ」というようなこと言った。
まさにその「怖い」現象に巻き込まれたのだと言う。
曰く、Coloさんは浅い眠りに入ったときに予知夢としかいいようがない不思議
な夢を見る。
その夢は目が覚めたときは覚えていない。ただ、ときどき日常生活の中で、
それを「思い出す」のだそうだ。
それも、まだ起こっていない未来を、思い出すのだ。
無理に思い出そうしても思い出せない。どういう基準で思い出せるのかも
よくわからない。しかも、まれにノイズとでもいうべきハズレが存在する。
その原因もわからない。
師匠はColoさんと一緒に寝ているとき、そのColoさんの見る予知夢を同時
体験してしまったことがあるという。自分が予知夢の登場人物になって思考し、
行動し、その体験が目覚めたあとも自分の意識にそのまま繋がっていた。そ
してその内容をColoさんは覚えていない。
同じだった。今回の俺の体験と。
「巻き込まれた」とはそういうことなのだ。
師匠が見た夢のことは詳しく教えてくれなかったが、「口にしたくないほど
恐ろしかった」そうだ。
「僕以外で、巻き込まれた人ははじめてかもしれない」
師匠は変なことに感心している。
「それにしても面白いな。『困難の正体が映る鏡』を見に行って、いつの
まにか自分自身が鏡の中にいたっていうのか」
あれは不思議な感覚だった。予知夢だかなんだか知らないが、そんなことは
ありえないと思う。あるいは、たまに外れるという『ノイズ』にあたる部分
なのかも知れない。
「1.鏡の向こうの俺に危険な人影が迫っている
2.こちらがわにはその人影は存在しない
3.今思考している俺は鏡の中の人物である
4.鏡の向こうが本当の世界である 」
師匠はボソボソとそう呟いた。
「つまり、『いないはずの人影が鏡の中にだけ映っている』という最初の
恐怖は、さっき挙げた君の4つの認識によって、『いるはずの人影が鏡の中
に映っていない』と変換されたわけだ。夢の中で自分が鏡の中にいるという
自覚が、いったい何を象徴しているのか、フロイト先生なら何か面白い解釈
をしてくれるかも知れないが。ともあれ少なくともここには、ある非常に興
味深い暗示が含まれている」
師匠はニヤニヤしながら、「こんな言葉をしっているか」と言って続けた。
吸血鬼は、鏡に映らない。
|
大学2回生の夏。
俺は大学の先輩と海へ行った。
照りつける太陽とも水着の女性とも無縁の、薄ら寒い夜の海へ。
俺は先輩の操る小型船の舳先で震えながら、どうしてこんなことにな
ったのか考えていた。
眼下にはゆらゆらと揺らめく海面だけがあり、その深さの底はうかが
い知れない。
ときどき自分の顔がぐにゃぐにゃと歪み、波の中にだれとも知れない
人の横顔が見えるような気がした。
遠い陸地の影は不気味なシルエットを横たえ、時々かすかな灯台の光
が緞帳のような雲を空の底に浮かび上がらせている。
「海の音を採りに行こう」
という先輩の誘いは、抗いがたい力を秘めていた。
オカルト道の師匠でもあるその人のコレクションの中には、あやしげな
カセットテープがある。聞かせてもらうと、薄気味の悪い唸り声や、
すすり泣くような声、どこの国の言葉とも知れない囁き声、そんなものが
延々と収録されていた。聞き終わったあとで「あんまり聞くと寿命が縮むよ」
と言われてビビリあがり、もう二度と聞くまいと思うが、何故かしばらく
するとまた聞きたくなるのだった。
うまく聞き取れないヒソヒソ声を、「何と言っているのだろう」という
負の期待感で追ってしまう。
そんな様子を面白がり、師匠は「これは海の音だよ」と言って夜の海へ
俺を誘ったのだった。
知り合いのボートを借りた師匠が、慣れた調子でモーターを操って海へ出た
頃にはすでに陽は落ちきっていた。
フェリーならいざ知らず、こんな小さな船で海上に出たことのなかった俺は
初めから足が竦んでいた。「操縦免許持ってるんですか?」と問う俺に
「登録長3メートル以下なら小型船舶操縦免許はいらない」と嘯いて、師匠は
暗く波立つ海面を滑らせていった。
どれくらい沖に出たのか、師匠はふいにエンジンを止めて、持参していた
テープレコーダーの録音ボタンを押した。
風は凪いでいた。
モーターの回転する音が止むと、あたりは静かになる。いや、しばらくすると
どこからともなく、海の音とでもいうしかないザワザワした音が漂ってきた。
潮に流されるにまかせてボートは波間に揺れている。
船首から顔を出して海中を覗き込んでいると、底知れない黒い水の中に
魚の腹と思しき白いものが時々煌いては消えていった。
師匠は黙ったまま水平線のあたりをじっと見ている。横顔を盗み見ても何を
考えているのかわからない。
微かな風の音が耳を撫でていき、船底から鈍く響いてくるような海鳴りが
どうしようもなく心細く孤独な気分にさせてくれる。
「採れてるんですかね」と言うと、口に指を当てて「シッ」という唇の
動きで返された。
何か聞こえるような気もするが、はっきりとはわからない。
そもそも、海の上でいったい何があのテープのような囁きを発するのか。
俺はじっと耳を澄まして闇の中に腰をおろしていた。
どれくらいたったのか、ざあざあという生ぬるい潮風に顔を突き出したまま
ぼーっとしていると、ふいに人影のようなものが目の前を横切った。
思わず目で追うと、たしかに人影に見える。漂流物とは思わなかった。なぜ
ならそれは、子供の背丈ほども海面に出ていたからだ。
俺は固まったまま動けない。
ただゆらゆら揺れながら遠ざかっていく暗い人影から目を離せないでいた。
海の只中であり、樹や、まして人間が立てるような水深のはずがない。
視界は狭く、ゆっくりと人影は闇の中へ消えていったが俺は震える声で、
あれはなんでしょうか、と言った。
師匠は首を振り、「海はわからないことだらけだ」とだけ呟いた。
懐中電灯をつけたくなる衝動にかられたが、なにか余計なものを見てしまう
気がして出来なかった。
ガチン
という音がしてアナクロなテープレコーダーの録音ボタンが元にもどった。
自動的に巻き戻しがはじまり、シャァーという音がやけに大きく響く。
師匠がテレコの方へ移動する気配があり、わずかに船が揺れた。
「聞いてみる?」
そんな声がした。
ここで?
俺は無理だ。俺や師匠の部屋ならいい。いや、あえていえば普通の心霊
スポットで、くらいなら大丈夫だ。
しかしここは、陸地から離れて波間に漂うここは、海面より上も下も人間の
領域ではないという皮膚感覚があった。
三界に家無し、という単語がなぜか頭に浮かび、頼るもののない心細さが
猛烈に襲ってきた。なにかが気まぐれにこの小さな船をひっくり返しても、
この世はそれを許すような、そんな意味不明の悪寒がする。そんなことを
考えながら船のヘリを渾身の力で掴んだ。
そんな俺にかまわず、師匠はガチャリとボタンを押し込んだ。
思わず耳を塞ぐ。
バランスが崩れないよう、足を広げて踏ん張ったまま俺の世界からは音が
消えて、テレコの前に屈みこんだままの師匠が、停止ボタンを押された
ように動かなくなった。
俺はその姿から目を離せなかった。
胸がつまるような潮の生臭さ。
板子一枚下は地獄。
ああ、漁師にとってのあの世は海なんだな、と思った。
波に合わせて揺れる師匠の肩口に人影のようなものが見えた。
ふたたび、海に立つ影が船のすぐ真横を横切ろうとしていた。
顔などは見えない。どこが手で、足でという輪郭すらはっきりわからない。
ただそれが人影であるということだけがわかるのだった。
師匠がそちらを向いたかと思うと、いきなり何事か怒鳴りつけて船から
半身を乗り出した。凄い剣幕だった。船が一瞬傾いて、反射的に俺は逆方向
に体を傾ける。
人影は立ったまま闇の中へ消えていこうとしていた。
師匠は乗り出していた体を引っ込め、船尾のモーターに取り付いた。俺は
バランスを崩し、思わず耳を塞いでいた両手を船の縁につく。
なんだあれ、なんだあれ。
師匠は上気した声でまくしたて、エンジンをかけようとしていた。
回頭して戻る気だ。
そう思った俺は、その手にしがみついて、ダメです帰りましょうと叫んだ。
師匠は俺を振りほどいて、言った。
「あたりまえだ、つかまってろ」
すぐにエンジンの大きな音が響き、船は急加速で動き始めた。
塩辛い飛沫が顔にかかるなかで俺は眼鏡を乱暴に拭きながら、かすかに見える
灯台の光を追いかける。
後ろを振り返る勇気は、なかった。
後日、師匠があのときの録音テープを聞かせてやる、と言った。
結局俺はまだ聞いてなかったのだ。喉元すぎれば、というやつでノコノコと
師匠の部屋へ行った。
「ありえないのが採れてるから」
そんなことを言われては、聞かざるを得ない。
テーブルの上にラジカセを置いて再生ボタンを押すと、くぐもったような
波の音と風の音が遠くから響いてくる。
耳を近づけて聞いていると、そのなかに混じってなにか別の音が入っている
ような気がした。
ボリュームを上げてみると確かに聞こえる。
ざあざあでもごうごうでもない、なにか規則正しい音の繋がり。それが延々と
繰り返されている。もっとボリュームを上げると、音が割れはじめて逆に
聞こえない。上手く調整しながらひたすら耳を傾けていると、それは二つ
の単語で出来ていることがわかった。人の声とも、自然の音ともとれる
なんとも言えない響き。
その単語を聞き取れた瞬間、俺は思わず腰を浮かせて息をのんだ。
それは紛れもなく、俺と師匠の名前だった。
|
幽霊を見る。
大怪我をする。
変質者に襲われる。
どんな恐怖体験も、夜に見る悪夢一つに勝てない。
そんなことを思う。
実は昨日の夜、こんな夢を見たばかりなのだ。
自分が首だけになって家の中を彷徨っている。
なんでもいいから今日が何月何日なのか知りたくてカレンダーを
探している。
誰もいない廊下をノロノロと進む。
その視界がいつもより低くて、ああ自分はやっぱり首だけなんだと思う
と、それがやけに悲しかった。
ウオーッと叫びながら台所にやってくると、母親がこちらに背を向けて
流し台の前に立っている。
ついさっきのことなのに何故かもう忘れてしまったが、俺はなにか凄く
恐ろしいことを言いながら母親を振り向かせた。
するとその顔が、 だった。
という夢。
こんな夢でも、体験した人間は身も凍る恐怖を味わう。
しかしそれを他人に伝えるのは難しい。
4時間しか経っていないのにすでに目が覚める直前のシーンが思い出せない。
けれど怖かったという感覚だけが澱のように残っている。
そんな恐怖を誰かと共有したくて、人は不完全な夢の話を語る。しかし上手
く伝えられず、「怖かった」という主観ばかり並べ立てる。えてしてそう
いう話はつまらない。もちろん怖くもない。
それを経験上わかっているから、俺はあまり怖い夢の話を人に語らない。
いや、違うのかもしれない。
怖い夢を語るというのは、人前で裸になるようなものだと、心のどこかで思っ
ているのかもしれない。それは情けなく、恥ずべきものなのだろう。夢の中
の恐怖の材料はすべて自分自身の投影にすぎない。
結局自分のズボンのポケットに入っているものに怯えるようなものなのだから。
大学2回生の春。
俺は朝からパチンコに行こうと身支度を整えていた。目覚まし時計まで掛け
て、実に勤勉なことだ。その情熱のわずかでも大学の授業へ向ければもっと
ましな人生になったかと思うと、少し悲しい。
ズボンを履こうとしているときに電話が鳴り、一瞬びくっとしたあと受話器
をとると「すぐ来い」という女性の声が聞こえてきた。
オカルト仲間の京介さんという人だ。「京介」はネット上のハンドルネーム
である。
困りごとがあってこっちから掛けることはよくあったが、あちらから電話を
掛けてくるなんて実にめずらしかった。
俺はパチンコの予定をキャンセルして、京介さんの家へ向かった。
何度か足を踏み入れたマンションのドアをノックすると、禁煙パイポを加えた
京介さんがジーンズ姿で出てきた。
いったい何事かと、ドキドキしながらそして少しワクワクしながら部屋に上がり、
ソファに座る。
まあ聞け、と言って京介さんはテーブルの椅子にあぐらをかき、語り始めた。
「すげー怖いことがあったんだ」
声が上ずり、落ち着かないその様子はいつもの飄々とした京介さんのイメージ
とは違っていた。
「一人でボーリングしてたら、やたらガーターばっかりなんだ。なんでこんな
調子悪いかなと思ってると、トイレの前で誰かが手招きしてるんだよ。なんだ
あれって思いながら続けてると、またガーター連発。知らないだろうけど私、
アベレージで180は行くんだよ。ありえないわけ。それでまたちらっと
トイレの方を見たら、誰かがすっと中に消えるところだったんだけど、
その手がヒラヒラまた手招きしてる。気になってそっちへ行ってみたら、
清掃中って張り紙がしてあった。でも確かにナカに誰か入っていったから、
かまわずズカズカ乗り込んだら、ナカ、どうなってたと思う。女子トイレ
だったはずなのに、なぜか男子トイレで、しかもゾンビみたいなやつらが
便器の前にずらっと並んでるわけ。それも行列を作って。パニックになって
私が叫んだら、そいつらが一斉にこっちを振り向いて、見るなコラみたいな
ことを言いながらこっちに近づいて来ようとし始めたんだよ。目なんか
半分垂れ下がってるやつとかいるし。そいつらがみんな皮がズルズルになった
手を、こう、ぐっと伸ばして・・・・・・」
そこまで聞いて、俺は京介さんを止めた。
「ちょっと、ちょっと待ってください。それってもしかして、ていうか、
もしかしなくても夢ですよね」
「そうだよ。すげー怖い夢」
京介さんは両手をを胸の前に伸ばした格好のままで、きょとんとしていた。
そのころから他人の夢の話は怖くない、という達観をしていた俺は尻のあたり
がムズムズするような感覚を味わっていた。
自分の見た怖い夢の話をする人は、相手の反応が悪いとやたら力が入りはじめ
余計に上滑りをしていくものなのだ。
「まあ聞けよ。そのゾンビどもから逃げたあとが凄かったんだ」
話を無理やり再開した京介さんの冒険談を俺は俯いてじっと聞いていた。
この人は、朝っぱらから自分の見た怖い夢を語るために俺を呼び出したらしい。
まるっきりいつもの京介さんらしくない。いや、京介さんらしいのか。
夢の話は続く。
俺は俯いたまま、やがて涙をこぼした。
「・・・・・・それで、自分の部屋まで逃げてきたところで、て、おい。なんで泣く。
おい。泣くな。なんで泣くんだ」
俺は自然にあふれ出る涙を止めることができなかった。
視線の端には、水が抜かれた大きな水槽がある。
京介さんを長い間苦しめてきた、その水槽が。
「泣くなってば、おい。困ったな。泣くなよ」
俺はすべてが終わったことを、そのとき初めて知ったのだった。
去年の夏から続く一連の悪夢が終わったことを。
結局俺は、さいごは蚊帳の外で。なんの役にも立てず。
京介さんや彼女を助けた人たちの長い夜を、俺は翌朝のパチンコをする夢で
過ごしていたのだった。
「まいったな。泣くほど怖いのか。こどもかキミは」
泣くほど情けなくて、恥ずべきで、そしてポケットに入れた魔除けのお守りを
すべて投げ出したくなるほど、嬉しかった。
京介さんの、夢を見た朝が、どうしようもなく嬉しかった。
|
大学2回生の夏のこと。
俺は心霊写真のようなものを友人にもらったので、それを専門家に見てもら
おうと思った。
専門家と言っても俺のサークルの先輩であり、オカルトの道では師匠にあた
る変人である。
彼のアパートにお邪魔するとさっそく写真を取り出したのであるが、それを
手に取るやいなや鼻で笑って、
「2重露光」
との一言でつき返してきた。
友人のおじいちゃんが愛犬と写っているその後ろに、ぼやっと人影らしきも
のが浮かび上がっているのであるが、師匠はそれをあっさりと撮影ミスであ
ると言い切ったのだ。
俺は納得いかない思いで、「それならいつか見せてもらった写真にだって似
たようなのあったでしょう」と言った。
その筋の業者から買ったという心霊写真を山ほど師匠は持っているのだ。
ところが首を振って「今ここにはない」と言う。
俺は狭いアパートの部屋を見回した。
そのとき、ふとこれまでに見せてもらった薄気味の悪いオカルトアイテムが
どこにもないことに気がついたのだ。いくつかは押入れに入っているのかも
しれない。しかし、一度見たものが、また部屋に転がっているということが
なかったのを思い出す。
「どこに隠してるんです」
師匠は気味悪く笑って、「知りたい?」と首をかしげた。
素直に「はい」と言うと、「じゃあ夜になるまで待とうな」と言って師匠は
いきなり布団を敷いて寝始めた。俺はあっけにとられて、一度家に帰ろうと
したがなんだかめんどくさくなり、そのまま床に転がってやがて眠りについた。
気がつくと暗い部屋の中に、ぼうっと淡い光を放つ奇妙な形の仏像がひしめ
いていて、師匠が包まっている布団が部屋の真ん中に浮かんでいる。という、
なんとも荒唐無稽な夢を見てうなされ、俺は目を覚ました。暑さと寝苦しさ
のためか、うっすら汗をかいている。
当然部屋には仏像や、師匠のオカルトコレクションの類は出現しておらず、
部屋のヌシも床の上の布団で寝ているのだった。
「もう夜ですよ」と揺り起こすと、窓の外をぼうっと見て「おお、いいカン
ジの時間」とぶつぶつ呟き、師匠は布団から這い出てきた。
「ボキボキ」と口で言いながら背伸びをしたあと、師匠は着替えもせずに俺
をアパートの外へ連れ立った。
深夜である。
特に荷物らしきものも持っていない。
ボロ軽四に火が入る。
助手席で「どこ行くんスか」と問うと、アクセルを踏みながら「隠れ家」と
言う。
「え」
それが存在することは想像はついていたことだが、ついに招待してくれるほ
どの信頼を得られたらしい。
そもそも盗むほどのものがないと言って、家賃9000円のボロアパートに
鍵も掛けずに出かけたりする人なのに、関西の業者から買ったなどと言って
は、おどろおどろしい逸話のある古道具などを嬉しそうに自慢することが多々
あった。
なるほど、それらを隠している場所が別にあったわけである。
北へ北へと車は向かい、すれ違うライトもほとんどない山道を蛇行しながら、
俺はある感覚に襲われていた。
ふつふつと肌が粟立つような寒気である。
原因はわかっている。単純に怖いのだ。人間の恨みや悪意が凝った塊が、
この向かう先にある。心の準備も出来ていない。
視線の端の境界面に、白いもやのような、揺れる人影のようなものが通り過
ぎては、瞬くように消えていくような錯覚があり、俺は目を閉じる。師匠も
なにも言わない。
ただタイヤがアスファルトを擦る音と、そのたびに体を左右に引っ張られる
感覚だけが続いた。
やがて「ついた」という声とともに車が止まり、促されて外に降りる。
山間の一軒屋という趣の黒い影が目の前に立っている。少し斜面を降りたあ
たりに別の家の明かりがある。しかし少なくとも半径20メートル以内には
人の気配はない。取り残された家、という言葉がふいに浮かび、ますますそ
の不気味さが増した気がした。
「家賃は1万1000円」
と言いながら玄関の前に立ち、師匠はライオンの顔の形をしたノッカーをさも
当然のように叩く。鈍い金属音がした。中からは何のいらえもない。その音
の余韻が消えるまで待ってから「冗談だよ」と言って、師匠は鍵を回しその
洋風のドアを開けた。
平屋でかなり古びているとはいえ、まともな一軒屋である。家賃1万1000円
というのは、どんなツテで借りたのか非常に興味があったが、なんとなく
答えてくれそうにない気がして黙っていた。
家の近くに街灯の類もなく、ほとんど真っ暗闇だったのが、家の中に入ると
当然明かりが点くだろうと思っていた。ところが玄関から奥へ消えた師匠が
ゴソゴソとなにかを動かしている音だけがしていたかと思うと、淡いランプ
の光がゆらゆらと人魂のように現れた。
「電気きてないから」
ランプを持った師匠らしき人影が、ほこりっぽい廊下を案内する。
スリッパを履いて、軋む板張りの床を足音を殺しながら半ば手探りで追いか
ける俺は「ほんとに借りてるのかこの人。不法侵入じゃないのか」というあ
らぬ疑念にとらわれていた。
リヴィングだ、という声がしてランプが部屋の中央のテーブルらしきものの
上に置かれる。
暗い室内を探索する気力もない俺は、素直にランプのそばのソファに腰掛けた。
もとは質のいいものなのかもしれないが、今は空気が抜けたようにガサガサ
して、座り心地というものはない。
師匠も同じように向かいのソファに座り、ランプのかぼそげな明かりを挟ん
で向かい合った。
さっきまで寝苦しかったというのに、ここは空気は冷たい。
恐る恐る周囲を見回すと、四方の壁にミクロネシアだかポリネシアだかの
原住民を思わせる黒い仮面が掛かっている。
ほかにも幽霊画と思しき掛け軸や、何かが一面に書かれた扇などが法則性も
なく壁にちりばめられていた。
「ここが隠れ家ですか」
師匠は静かに頷く。
「どうしてわざわざ夜まで待ったんです」
ふーっと、深い溜息をついてから壁の一点を見つめて、師匠は口を開いた。
「この時間が、好きなんだ」
視線の先には、大きな柱時計が暗い影を落としていた。
ランプの淡い光に浮かび上がるように、文字盤がかろうじて読める。
長針は2時半のあたりをさしていた。
ガラス張りになっている下半分に、振り子が見える。
しかしそれは動いておらず、この時計がもはや機能していないことを示して
いた。
腕時計を確認するが、ちょうどそのくらいの時間だ。振り子が止まっている
だけで、もしかして時計自体は壊れていはいないのだろうか、と思っていると
師匠が言葉を継いだ。
「その腕時計は進んでるか? 遅れているか?」
振られて、また自分の腕時計に目を落とすが、はたしてどうだっただろう。
たしか1、2分進んでた気がするが。
「どんな精密な時計でも、完璧に正確な時間をさしつづけることはできない。
100億分の1秒なんていう単位ではまるで誤差がないように見えたとし
ても、その100億分の1では? さらにその100億分の1では? さら
にその100億の100億乗分の1では?」
ランプの明かりがかすかな気流に揺れているような錯覚に、俺は師匠の顔を
見ながら目を擦る。
「時計は、作られた瞬間から、正確な時間というたった一つの特異点から遠
ざかって行くんだ。それは無粋な電波時計のように外部からの修正装置でも
存在しない限り、どんな時計にも等しく与えられた運命といえる」
ところが、と師匠はわずかに身を起こした。
「この壊れた柱時計は、壊れているというまさにそのことのために、普通の
時計にはたどり着けない真実の瞬間に手が届くんだ」
俺は思わず、時計の文字盤を見上げた。
長針と短針が、90度よりわずかに広い角度で凍りついたまま動かない。
「一日のうち、たった一度、完璧に正しい時間をさす。その瞬間は形而上学
的な刹那の間だとしても、たった一度、必ずさすんだ」
陶然とした表情で、師匠は時計を見ている。それが夜まで待ってこの時間に
わざわざ来た理由か。
俺は意地悪く、言葉の揚げ足をとりに行った。
「2度ですよ。一日のうち、夜の2時半と、昼間の14時半の2度です」
ところが師匠は、その無遠慮な批判にはなんの価値もないというように首を
振って、一言一言確かめるように言った。
「1度だけだよ。この時計がさしているのは、今の、この時間なんだ」
一瞬頭を捻ったが、その言葉になんの合理的解釈もなかった。ただ師匠はな
んの疑いもない声で、そう断言するのだった。
パキン
という音が響いた。
家鳴りだ。
俺は身を硬くする。
天井のあたりを恐々見上げるが、平屋独特の暗く広い空間と梁があるだけだ。
ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
という木材が軋む音が聞こえてくる。
実家にいたころはよく鳴っていたが、今のアパートに越してからは素材が違う
せいかほとんど聞くことはなかった音だ。
まるで、柱時計が本来の時間と交差するのを待っていたかのように、家鳴りは
続いた。
バキン、という大きな音に思わず身を竦ませる。
たしか湿気を含んだ素材などが、空気が乾燥し気温の下がる夜中に縮み始め、
それが床や壁、柱などの構造物どうしのわずかなズレを生んで、不気味な音
を立てる現象のはずだ。
ただの家ではない。
この、どんなおどろおどろしい物があるのか分からない薄気味の悪い家で、
頼りないランプの黄色い光に照らされている身では、この音をただの家鳴り
だと気楽に構える気にはなれない。
向かいに座る師匠を見ると、目を閉じてまるで音楽を聴くように口の端をど
こか楽しげに歪ませている。
俺もソファに根が生えたように動かず、ただひたすらこの古い家に断続的に
響く音を聞いていた。
どれほど時間が立ったのか、ふいに師匠がちょっと待っててと言い置いて、
たった一つの明かりとともに廊下の方へ消えていった。
リビングに闇の帳がスーッと下りてきて、バシン・・・・・・パキン・・・・・・という
家鳴りがやけに立体的になって空間中に響き渡る。
心細くなってきたころ、ようやく師匠が小脇になにかを抱えるようにして
戻ってきた。
テーブルの真ん中にそれを置き、ランプを翳した。
絵だった。
それも、見た瞬間、理由も分からないまま鳥肌が立つような、本能に直接届く、
気味の悪い絵だった。
なぜこんな絵が怖いのか分からない。
キャンパス一面の黒地にただ一点、真ん中から少しずれたあたりに黄色い染
みのような色がぽつんと置いてある。そんな絵だった。
「この家の元の所有者はね、洋画家だったんだ」
それも、晩年に気の触れた画家だった。
師匠は呟くように言う。
「自分の描いた絵を見て、『誰か、中に、いた』と言って怯える、そんな人
だったらしい。この絵も、自分で描いておきながら『これはなんの絵だろう』
と言ったかと思うと、そのまま何週間も何ヶ月も考え込んでいたそうだ」
バキッ、と壁が泣いた。
心なしか、家鳴りが大きくなった気がする。
「食事もほとんどとらずに、げっそりと痩せこけながらこの絵を睨み続けて
いたある日、ふいに頭をあげた彼は、きょとんとした顔で家族にこう言った
そうだ。『わかった。これは』」
バシン・・・・・・ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
まるで師匠の言葉を邪魔するように、軋む音が続く。
「その4日後に、彼は家族の前から姿を消した。『地下室にいる』という
書置きを残して。家族は家中を探した。けれど彼は見つからなかった。
それから、普通失踪の7年間が過ぎるのを待って失踪宣告を受け、彼
は死んだものと見なされてこの土地と家屋は残された家族によって売り払
われた。それを買った物好きは、この家に伝わる逸話が気にいったらしい。
『地下室にいる』というこの言葉に金を出したようなものだ、と言っていた
よ。僕はその物好きと知り合って、この家を借りた。まあ、なかば共同の
物置のように使っている」
だけどね、と師匠は続けた。その一瞬の間に、誰かが天井を叩くような音
が挟まる。
「だけどね、この絵ももちろんそうだけど、たとえばこの部屋を取り囲む
モノたちはすべてその洋画家の収集物なんだ。彼は画家であり、また狂った
オカルティストでもあった。彼のコレクションはついに家族には理解されず、
家に付随する形で二束三文で売られてしまった。その柱時計もその一つ
だ。なにか戦争にまつわる奇怪な逸話があるそうだが、詳しくは分からない」
師匠の声を追いかけるように家鳴りは次第に大きくなっていくようだ。
「僕自身の収集品は、鍵の掛かる地下室に置いてある。彼が『地下室にいる』
と書き残したその地下室に。僕もその言葉が好きだ。なんだか撫でられる
ような気持ちの悪さがないか? 『地下室にいる』という、ここに省略さ
れた主語が『わたしは』でなかったとしたらどうだろう」
バキン・・・・・・と、床のあたりから音が聞こえた。いや、おそらく俺がそちら
に意識を集中したからそう思われただけなのかも知れない。
「僕は、まだいるような気がするんだ」
師匠は目を泳がせて、笑った。
「彼か、あるいは、彼ではない別のなにかが。この家の地下室に。すくなく
ともこの家の中に・・・・・・」
その声は乾いた闇に吸い込まれるようにフェードアウトしていき、どこから
ともなく響いてくる金属的な軋みが絡み付いて、俺の背中を虫が這うような
悪寒が走るのだった。
再びその暗い絵に視線が奪われる。
そして言わずにはいられないのだった。
あなたにはわかったんですかと。
ボキン、ボキンと骨をへし折るような空恐ろしい音がどこからともなく聞こえ
る中、師匠はすうっと表情を能面のように落ち着ける。
「わからない」
たっぷり時間をかけてそれだけを言った。
夜明けを待たずに、俺たちはその家を出た。
結局、師匠の秘蔵品は拝まなかった。とてもその勇気はなかった。いいです、と
言って両手を振る俺に師匠は笑っていた。
のちに師匠の行方がわからなくなってから、俺はあの家の家主を見つけ出した。
1万1000円で家を貸していた人だ。
店子がいなくなったことに興味はない様子だった。なくなった物も、置いてい
った物もないし、別に・・・・・・とその人は言った。
それを聞いて俺は単純に、師匠は自分の収集品を処分してから消えたのだと考
えていた。
ところがその人は言うのである。
「ぼくがあの家を買い取った理由? それは何と言っても『地下室にいる』って
いう興味深い書置きだね。だってあの家には地下室なんてないんだから」
結論から言うと、僕はその家をもう一度訪ねることはしなかった。
何年かして、ある機会に立ち寄ると更地になっていたので、もう永久に無理な
のであるが。
この不可解な話にはいくつかの合理的解釈がある。地下室があるのに、ないと
言った嘘。地下室がないのに、あると言った嘘。そして『地下室にいる』と書い
た嘘。
どれがまっとうな答えなのかはわからない。ただ、深夜に一人でいるとき、部屋
のどこからともなく木の軋むような音が聞こえてくるたび、古めかしい美術品に
囲まれた部屋の、ランプの仄明かりの中で師匠と語らった不思議な時間を思い出す。
|
大学1回生の春。
休日に僕は自転車で街に出ていた。まだその新しい街に慣れていないころで、
古着屋など気の利いた店を知らない僕は、とりあえず中心街の大きな百貨店
に入りメンズ服などを物色しながらうろうろしていた。
そのテナントの一つに小さなペットショップがあり何気なく立ち寄ってみると、
見覚えのある人がハムスターのコーナーにいた。腰を屈めて、落ち着きのな
い小さな動物の動きを熱心に目で追いかけている。
一瞬誰だったか思い出せなかったが、すぐについこのあいだオフ会で会った
人だと分かる。地元のオカルト系ネット掲示板に出入りし始めたころだった。
彼女もこちらの視線に気づいたようで、顔を上げた。
「あ、こないだの」
「あ、どうも」
とりあえずそんな挨拶を交わしたが、彼女が人差し指を眉間にあてて「あー、
なんだっけ。ハンドルネーム」と言うので、僕は本名を名乗った。彼女のハ
ンドルネームは確か京介と言ったはずだ。少し年上で背の高い女性だった。
買い物かと聞くので、見てるだけですと答えると「ちょっとつきあわないか」
と言われた。
ドキドキした。男から見てもカッコよくて、一緒に歩いているだけでなんだ
か自慢げな気持ちになるような人だったから。
「はい」と答えたものの「ちょっと待て」と手で制され、僕は彼女が納得い
くまでハムスターを観察するのを待つはめになった。変な人だ、と思った。
京介さんは「喉が渇いたな」と言い、百貨店内の喫茶店に僕を連れて行った。
向かい合って席に座り、先日のオフ会で僕がこうむった恐怖体験のことを暫し
語り合った。気さくな雰囲気の人ではないが、聞き上手というのか、そのさば
さばした相槌にこちらの言いたいことがスムーズに流れ出るような感じだった。
けれど、僕は彼女の表情にふとした瞬間に浮かぶ陰のようなものを感じて、そ
れが会話の微妙な違和感になっていった。
話が途切れ、二人とも自分の飲み物に手を伸ばす。
急に周囲の雑音が大きくなった気がした。
もともと人見知りするほうで、こういう緊張感に耐えられないたちの僕は、な
んとか話題を探そうと頭を回転させた。
そして特に深い考えもなく、こんなことを口走った。
「僕、霊感が強いほうなんですけど、このビルに入った時からなんか首筋が
チリチリして変な感じなんですよね」
デマカセだった。オカルトが好きな人なら、こういう話に乗ってくるんじゃ
ないかという、ただそれだけの意図だった。
ところが京介さんの目が細くなり、急に引き締まったような顔をした。
「そうか」
なにか不味いことを言っただろうか、と不安になった。
「このあたりは」とコーヒーを置いて口を開く。
「このあたりは戦時中に激しい空襲があったんだ。B29の編隊が空を覆って、
焼夷弾から逃れてこの店の地下に逃げ込んだ人たちが大勢いたんだけど、煙
と炎に巻かれて、逃げ場もなくなってみんな死んでいった」
淡々と語るその口調には非難めいたものも、好奇も、怒りもなかった。ただ語
ることに真摯だった。
僕はそのとき、この女性が地元の生まれなんだとわかった。
「まだ夜も明けない時間だったそうだ」
そう言って、再びカップに手を伸ばす。
後悔した。無責任なことを言うんじゃなかった。
情けなくて気が滅入った。
京介さんは暫し天井のあたりに視線を漂わせていたが、僕の様子を見て「オイ」
と身を乗り出した。
そして、「元気出せ少年」と笑い、「いいもの見せてやるから」とジーンズの
ポケットを探り始めた。
なんだろうと思う僕の目の前で京介さんは黒い財布を取り出し、中から硬貨を
1枚出してテーブルの上に置いた。
10円玉だった。
なんの変哲もないように見える。
頷くので手にとってみると、表には何もないが10と書いてある裏面を返すと
そこには見慣れない模様があった。
昭和5×年と刻印されているその下に、なにか鋭利なものでつけられたと思し
き傷がある。小さくて見え辛いが「K&C」と読める。
これは? と問うと、私が彫ったと言う。
犯罪じゃないかと思ったが、突っ込まなかった。
「高1だったかな。15歳だったから、何年前だ・・・・・・6年くらいか。学校で
友だちとこっくりさんをしたんだよ。自分たちは霊魂さまって呼んでたけど。
それで使い終わった10円をさ、持ってちゃダメだっていう話聞いたことあ
ると思うけど、私たちの間でもすぐに使わなきゃいけない、なんていう話に
なって確かパン屋でジュースかなにかを買ったんだよ」
僕も経験がある。僕の場合は、こっくりさんで使った紙も近くの稲荷で燃やし
たりした。
「使う前にちょっとしたイタズラを考えた。そのころ流行ってた噂に、そうし
て使った10円がなんども自分の手元に還って来るっていう怪談があった。
でもどうして、その10円が自分が使ったやつだってわかるんだろうと常々
疑問だった。だから還ってきたらわかるように、サインをしたんだ」
それがここにあるということは・・・・・・
「そう。そんなことがあったなんて完璧に忘れてたのに、還って来たんだよ
今ごろ」
4日前にコンビニでもらったお釣りの中に、変な傷がついてる10円玉がある
と思ったらまさしくその霊魂さまで使用した10円玉だったのだと言う。
微妙だ。
と思った。
10円玉が世間に何枚流通しているのか知らないが、所詮同じ市内の出来事だ。
僕らは毎日のようにお金のやりとりをしてる。6年も経てば一度くらい同じ
硬貨が手元に来ることもあるだろう。普段は10円玉なんてものを個体として
考えないから意識していないだけで、案外ままあることなのかも知れない。た
だ確かにその曰くがついた10円玉が、という所は奇妙ではある。
「どこで使われて、何人の人が使って、私のところまで戻って来たんだろうなあ」
感慨深げに京介さんは10円玉を照明にかざす。僕は、なぜか救われたような
気持ちになった。
喫茶店を出るとき、「奢ってやる」という京介さんに恐縮しつつもお言葉に甘
えようと構えていると、目を疑う光景を見た。
レジでその10円玉を使おうとしていたのだ。
「ちょっとちょっと」と止めようとする僕を制して「いいから」と京介さんは
会計を済ませてしまった。
ありがとうございましたとお辞儀した店員には、どっちが払うかで揉める客の
ように見えたかもしれない。
歩きながら僕は「どうしてですか」と問いかけた。だって、そんな奇跡的な出
来事の証しなのだから、当然自分自身にとって10円どころの価値ではない
宝物になるはずだ。
しかし京介さんは「また還って来たら、面白いじゃないか」とあっさりと言い
放った。
聞くと、その10円玉が手元に戻って来た時から決めていたのだと言う。ただ
10円玉を支払いに使う機会が今まで偶々なかっただけなのだと。
歩幅が、僕よりも広い。
少し早足で追いかける。
その歩き方に、迷いない生き方をして来た人だという、憧れとも尊敬ともつか
ない感情が沸き起こったのを覚えている。
追いついて横に並んだ僕に、京介さんは思いついたように言った。
「奢る必要があっただろうか」
そんなことを今さら言われても困る。
「私の方が年上だけど、私は女でそっちは男だ」
ちょっと眉に皺を寄せて考えている。
そして哲学を語るような真面目な口調で言うのである。
「あのコーヒーだけだと、10円玉は使わなかったはずだ。オレンジジュース
が加わってはじめて10円玉が出て行く金額になる」
これはノー・フェイトかも知れない。
そんな言葉を呟いて苦笑いを浮かべている。
その意味はわからなかったけれど、彼女の口から踊るその言葉をとても綺麗だ
と思った。
思えばK&Cと刻まれた10円玉が京介さんのもとへと還って来たのは、そのあ
とに起こったやっかいな出来事の兆しだったのかも知れない。
|
大学2回生のとき、出席しなくてもレポートだけ提出すれば少なくとも可は
くれるという教授の講義をとっていた。
嬉々として履修届けを出したにも関わらず、いざレポートの提出時期になると
「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」とムカムカしてくる。最低の学生
だったと我ながら述懐する。
ともかく、何時以来かという大学付属図書館に参考資料を探しに行った。
IDカードを通してゲートをくぐり、どうして皆こんなに勉強熱心なんだと思う
ほどの学生でごった返すフロアをうろうろする。
こんなに暗かったっけ。
ふと思った。
いや、高い天井から照明は明々とフロア中を照らしている。
目を擦る。
郷土資料が置いてある一角の、光の加減がおかしい。妙に暗い気がする。上を
見ても、蛍光灯が切れている部分はない。
俺が首を傾げているその時、眼鏡をかけた男子学生がその一角を横切った。
スッと、俺の目に暗く見える部分を避けて。
けっして不自然ではない足運びだった。本人もどうしてそんな動きをしたのか、
1秒後には思い出せないだろう。
全然興味のない郷土史を手に取ろうと、近づいてみる。
その本棚のかすかな陰に右足が入った途端、すごく、嫌な感じがした。
嫌な予感というのはきっと誰でも経験したことがあるだろう。
その嫌な予感を、なんいうか、腹の下のあたりにゆっくりと降ろしてきたような、
そんな感覚。
けっして絶対的に拒絶したいわけではないけれど、触れずに済むならそれにこ
したことはない。
人差し指まで掛けた分厚い装丁の本を元の位置に戻す。
これはなんだろう。
レポートのための資料探しなどすっかり忘れて、俺は図書館内を歩き回った。
そしてそんなエアポケットのような場所をいくつか発見した。
遠くからそうした場所を観察していると、足を踏み入れる人がやはり少ないこと
に気づく。
目的の本があって迷いなくそちらへ向かう人もいるが、ただ単にどんな本がある
か見て回っているだけと思しき人は、ほぼ例外なくそのエアポケットを避けている。
そのスポットの本の種類は様々だ。これは一体なんなのだろう。
1回生の頃には感じられなかった。
俺は大学入学以来オカルト好きが高じて、いろいろな怖いものに首を突っ込み続
けた結果、明らかに霊感というのか、ある方面に向いたインスピレイションが
高まっていた。
それが原因としか思えない。
しかし、このエアポケットからは直截的に霊的なものは感じない。
と思う。でも単純に俺の直感が至らないだけなのかも知れない。
そこで一番嫌な感じのする場所に、あえて踏み込んでみた。
周囲の目もあるので、適当に掴んだ本を開いてその場に立ち続ける。
嫌な予感をぐるぐると渦巻状にしたようなものが、下半身にズーンと溜まっていく。
段々と周りの光が希薄になり、酸素が足りてない時のように視界が暗くなって、
そしてすぐ隣で同じように本を立ち読みしている人が止まったまま遠ざかって
いくような、雑音が消えていくような、気圧が低くなっていくような……
思わず飛びずさった。
何も感じないらしい隣の人が、なんだろうという表情でこちらを見る。
俺は知らぬ間に浮かんでいた冷たい汗を拭って、投げるように本を棚に戻して
そのまま図書館を出た。
後日サークルの先輩にその話をした。
俺を怖いものに首をつっこませ続けた張本人であり、師匠風をやたらと吹かせ
る人だ。
「ああ、旧図書館か」
したり顔で合点がてんする。
あそこは、いろいろあってね。
そう続けて、俺の顔を正面から見据えてから「興味がある?」と聞いてきた。
ないわけはない。
つれられるままに夕方、図書館のゲートをくぐった。
「あそこですけど」
通り過ぎようとする師匠に、本棚の並ぶ一角を示す。
それを無視するように足早に進むので、仕方なしに追いかけた。
書庫へ向かっていた。
何度か入ったことはあったが薄暗く、かび臭いような独特の空気が好きになれ
ない場所だった。
それに、書庫にあるような本は一般のぐーたら学生には縁遠い。
「タイミングが重要だ」
出入り口に鍵は掛かるが、今はまだフリーに出入りできる。
師匠は書庫に入ると俺に目配せをしながら、あるスペースに身を潜めた。
俺も続く。誰にも見られなかったと思うが、少し緊張した。
ここで、時間を、潰す。
師匠が声を顰めてそう言った。
どうやら夜の図書館に用があるらしい。見回りの職員の目からロストするために、
姿を隠したのだ。
そうか。
書庫は図書館自体が閉まるより早く施錠されるから……
随分待つ羽目になったが、人名尻取りを少しやったあとウトウトしはじめ、あっ
さりと二人とも眠ってしまった。
目が覚めてからよくこんな窮屈な格好で寝られたものだと思う。
凝った関節周辺を揉みほぐしながら隣の師匠を揺り動かすと、「どこ? ここ」
と寝ぼけたことを言うので唖然としかけたが、「冗談だ」とすぐに軽口だか弁解
だかをして外の様子を伺う。
暗い。
そして書庫の本棚が黒い壁のように視界を遮る。
先へ行く師匠を追いかけて手探りで進む。
息と、足音を殺して本の森の奥へと。
「あ」
師匠にぶつかって、立ち止まる。
闇の中でのジェスチャーに従い、その場に座り込む。
「その、エアポケットみたいな場所って」
ヒソヒソ声が言う。
「人間には居心地の悪い空間でも、霊魂にとってはそうじゃない。むしろ霊魂が
そこを通るから人間には避けたくなるんだろう」
「霊道ってやつですか」
首を振る気配がある。
「道って言葉はしっくり来ないな。どちらかというと、穴。そうだな。穴だ」
そんな言葉が静まり返った書庫の空気をかすかに振るわせる。
そして師匠は、この図書館が立っている場所にはかつて旧日本軍の施設があった
という話をした。
それは知っている。大学の中には、そのことにまつわる怪談話も多い。
「この真下に、巨大な穴がある」
掘ったら、とんでもないものが出てくるよ。たぶん。
そう言って、コツ、コツと床を指で叩く。
「だからそこに吸い込まれるように、昔からこの図書館には霊が通るそういう穴
がたくさんある」
沈黙があった。
師匠が叩いた床をなぞる。長い時間の果てに降り積もった埃が指先にこびりついた。
ふいに足音を聞いた気がした。
耳を澄ますと、遠いような近いような場所から、確かに誰かが足を引きずる様な
音が聞こえてくる。
腰を浮かしかけると、師匠の手がそれを遮る。
その音は背後から聞こえたかと思うと、右回りに正面方向から聞こえ始める。
本棚の向こうを覗き込む気にはなれない。
歩く気配は続く。
それも、明らかに二人のいるこの場所を探している。それがわかる。
この真夜中の書庫という空間に、人間は俺たち二人しかいない。それもわかる。
奥歯の間から抜けるような嘲笑が聞こえ、師匠の方を向くと「あれはこっちには
来られないよ」という囁きが返ってくる。
結界というのがあるだろう。茶道では、主人と客の領域を分けるための仕切りの
ことだ。竹や木で作るものが一般的だが、僕が最も美しいと思うものが、書物で
つくる結界だよ。そして仏道では結界は僧を犯す俗を妨げるものが結界であり、
密教でははっきりと魔を塞ぐものをそう言う。結界の張り方は様々あるけれど、
古今、本で作るものほど美しいものはない。
ザリザリ。
革が上下に擦られるようなそんな音をさせて、師匠は背後にそびえる棚から一冊
の本を抜きとった。暗い色合いのカバーで、タイトルは読めない。
これは僕がここに仕込んだ本だよ。どうすれば相応しい場所に相応しい本を置
けるか、ひたすら研究してそしてここに通い詰めた。おかげで図書館学には
いっぱしの見識を身に着けたけどね。教授を騙して寄贈させたり、どのスペース
が次に埋まるか、その前にどの本が次に書庫送りになるか、その前にそれに影響
を与える本が果たして次に購入されるのか。計算しても上手くいかないことも多
い。こっそり入れ替えても書庫とはいえ、いつの間にか直されてるから。どうし
ても修正できないときはまあ、多少非合法的な手段もとった……
足音が増えた。
歩幅の違うふたつの音が、遠くなったり近くなったりしながら周囲を回っている。
片方は苛立っている。
片方は悲しんでいる。
ような気がした。
そして俺にはいったいなにが、ここに来たがっているその二つの気配を遮ってい
るのか全くわからない。
左肩のほうから右肩の方へ、微かに古い紙の匂いが漂う気流が通り抜けているだ
けだ。
視界は狭く、先は暗幕が掛かったように見通せない。
「僕が書庫の穴を塞いだころから、流れが変わったのか外の穴まで虫食いみたい
に乱れはじめた」
こんなことができるんだよ、たかが本で。
師匠は嬉しそうに言う。
今の話には動機にあたる部分がなかった。けれど、何故こんなことをするんです
かという問いを発しようにも、「こんなことができるんだよ、たかが本で」とい
うその言葉しか、答えがないような気がした。
延々と足音は回り続ける。
その数が増えたり減ったりしながら、苛立ちと悲しみの気配が大きくなり、空気
を満たす。
肌を刺すような緊張感が迫ってくる。俺は目に見えない防壁にすべてを託して、
目を閉じた。
いつか、「そのくらいにしておけ」という人ならぬものの声が、俺の耳元で人間
のルールの終わりを告げるような気がして、両手で耳も塞いだ。
他に閉じるものはないだろうかと思ったとき、俺の中の得体の知れない感覚器が、
足元のずっと下にある何かを知覚した。巨大な穴のイメージ。師匠の言う「穴」
を「霊道」に置き換えるならば、下に向かう霊道なんてものが存在していいのだ
ろうか。
この感覚を閉じるには、どうしたらいいのか。
震えながら、朝を待った。
その書庫も、今では立ち入り禁止になっているらしい。
消防法がどうとかいう話を耳にはしたけれど、どうだかわからない。
師匠が司書をしていた期間となにか関係があるような気がしているが……はたして。
|
俺は子供のころからわりと霊感が強い方で、いろいろと変な物を見ることが
多かった。
大学に入り、俺以上に霊感の強い人に出会って、あれこれくっついて回って
いるうちに、以前にも増して不思議な体験をするようになった。
霊感というものは、より強いそれに近づくことで共振現象を起こすのだろうか。
いつか俺が師匠と呼ぶその人が、自分の頭に人差し指をあて、「道が出来るん
だよ」と言ったことを思い出す。
大学2回生の夏。
そのころ俺は師匠に紹介されて、ある病院で事務のバイトをしていた。そこで、
人の死を見取った看護師が、死者の一部を体に残したままで歩いているのを何度
も見た。霊安室の前を通ったとき、この世のものではない声に呼び止められた
りもした。
その話を俺から聞いた師匠は、満足げに「それは大変だなぁ」と言い、しばらく
なにか考えごとをするように俯いていたかと思うと、「ゲームをしないか」と顔
を上げた。
よからぬことを考えているのは明白だったが、承知した。どんなことを考えてい
るのか知らないが、絶対にろくな目にあわないことはわかっている。
けれどそのころ、そんなことが俺のすべてだった。
深夜。
土曜日にも関わらず俺は師匠とともに大学構内に入り込んでいた。
平日にすらめったに足を踏み入れない不真面目な学生だった俺は、黒々とそびえ
る夜の校舎の中を縫うように歩いてるということに、変な高揚を覚えていた。
443 跳ぶ ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 22:58:31 ID:OPG460nV0
別に夜中でも構内は立ち入り禁止ではないし、校舎によっては研究室らしき一室
の窓にまだ明かりが点っているところもある。けれどこんなところで人とすれ違
ったら、気まずいだろう。そう思い、声も立てずに足音も忍ばせて進む。
やがて師匠は一つの建物の下で足を止めた。
なじみのない他学部のブロックであり、一体なんの校舎なのかわからなかったが、
師匠は勝手を知った様子で建物の裏に回った。一層の暗がりの中でゴソゴソと
なにかをしていたかと思うと、カラカラという乾いた音とともに一つの窓が開
いた。
師匠はまるでコントのスパイのようにわざとらしく、来いという合図をする。
なんだか可笑しかった。
うちの学部棟にもこんな抜け道がある。代々の先輩から受け継ぐ、夜専用の進入路。
どこも同じだなあ、と思いながら師匠に続いて窓から体を滑り込ませる。
何も言ってないのに「シー」と囁くと、師匠は暗闇の中を手探りで進んだ。廊下
もなにもすべて真っ暗で、遠くに見える非常口の緑色がやけに心細い気持ちにさ
せる。
階段を何度か上り、小さなドアの前に立った。
開けると、一瞬夜風が顔を吹き抜けた。
屋上に出た。
いちめんの星空だった。
二人の他は、だれもいない。ただ風だけが吹いていた。
「こういうのって、学生ってカンジがしませんか」
そんな俺の言葉にピンとこない様子で、師匠は空返事をしながら屋上のフェンス
から下を覗き込む。
俺は妙にはしゃいで、そこらを走り回った。
これであと何人かいて、バスケットボールでもあれば完璧だなぁと思った。
「ちょっとそこでジャンプしてみ」
いつのまにか壁際にもたれかかるように座り込んでいた師匠がそう言った。
444 跳ぶ ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 22:59:27 ID:OPG460nV0
言われたとおり、垂直跳びの要領でジャンプする。
ゲームとやらがはじまったらしい。
俺は変なテンションで、続けざまに飛び跳ねる。
おいおい、もういい。もういい。
苦笑した師匠に一度止められ、次に「今度は目をつぶって跳んでみ」と指示を
受けた。
目をつぶる。
跳ぶ。
着地の瞬間にバランスを崩しそうになり、そのまましゃがみこむ。
「そうそう、そんな風に地面につく瞬間に体を縮めて、出来るだけ滞空時間を長
くしてみて」
何度もそのやり方で跳ばされた。
その次の指示には驚いた。
校舎の縁に立てというのである。
落下防止のフェンスのない部分があり、その前に立たされた。
もちろん下は奈落の底だ。
「じゃあ、目をつぶったままそこで跳んで」
縁に立つと、垂直跳びでも怖い。少しバランスを崩せば落ちかねない。
そんな俺の躊躇いを見透かしたように、「後ろに跳んでいいから」と師匠が声を
掛けた。
それなら、まあ出来ないこともない。
夜に切り取られたような校舎の縁の前に立ち、目をつぶる。つぶった瞬間に膝が
ぐらりとした。数十センチ先に、断崖がある。考えないようにしても、想像して
しまう。それでも、まだこの不思議なゲームを楽しむ余裕があった。
反動をつけ、掛け声をあげて後方に跳ぶ。着地し、そのまま転びそうになる。
「もう一度」という声に、従う。
445 跳ぶ ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 23:00:30 ID:OPG460nV0
5回も繰り返すと慣れてきた。よほどの突風でも吹かない限り、落下することは
ないし、今日の風は吹いても微風だ。
そう思っていると、師匠が「次は難しいぞ」と言った。
その場で、目をつぶったまま体を回転させ方角をわからなくしろ、と言うのである。
殺す気か。
俺がそう突っ込む前に、「跳ぶ前に声をかけるから」と言ってきた。
「それに縁に立って回るのが怖かったら、しゃがんだまま回ってもいい」
ドキドキしてきた。
いったいなにをさせる気なんだ。
それでも言うとおりにした。まだブレーキを踏むには早い。そんな気がする。
縁の前にしゃがみ込み、目をつぶったまその場でぐるぐると回る。怖いので、
両手を地面に触れるようにしながら。
十何回転かすると、すっかり方角がわからなくなった。
いったい断崖がどの方向にあるのか。
そう考えたとき、締め付けられるように心細くなった。座ったままだというの
に足元が今にも崩れ去りそうな頼りなさ。
目を開けたい。
その衝動と戦った。
やがて打ち勝ち、恐々ながら立ち上がる。
いつの間にか風が止んでいる。昼間ならば目を閉じていても感じる太陽も今ここ
にはない。
本当に方向がわからない。
方向はわからないけれど数歩先には確かに、人の命をあの世まで引っ張り込む
断崖がある。立っているだけで、どうしようもない恐怖心が襲ってきた。
座ろうか。
その誘惑に負けそうになったとき、師匠の声がした。
446 跳ぶ ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 23:01:32 ID:OPG460nV0
「ようし、こっちだ。跳べ」
確かにその声は正面から聞こえた。ほぼ真正面。
その瞬間に、右も左もない暗闇の世界で自分のいる座標が決定されたような、
一種のカタルシスがあった。
震えていた膝が伸びる。
これならいける。
目を閉じたまま体を沈ませ、前方に跳ぶための力を溜め込む。
その時、頭の中にイメージが浮かんだ。
闇に切り取られた断崖の向こう。
師匠が虚空にふわふわと浮かんで嗤っている。
バカか。
その悪夢のようなイメージを頭から振り払おうとする。
正面だ。真正面に跳べば、なんてことない。
自己暗示をかけながら、俺は歯を食い縛って暗闇の中に跳躍した。
白い線で、脳裏に絵を描く。
俺は師匠のいる方向に数十センチ跳び、やがて屋上のコンクリートに足から落ち
ていく。
その白い線で出来た地面にイメージの俺が着地したとき、本物の足にはまだ着地
の衝撃はなかった。
一瞬。
白い線でできた世界は消え去り、巨大な穴のような断崖が足元にぽっかりと口
を開けた。
恐慌が全身に広がる前に、下半身へ衝撃がきた。
着地。
膝をつき、両手をつく。
目を開けると、師匠が哲学者のような表情で腕を組んでいる。
「いま、落ちるのが遅く感じなかったか」
447 跳ぶ ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 23:02:25 ID:OPG460nV0
俺は脳の中を覗かれたような気持ち悪さに襲われながら、それでも頷く。
「死ぬ直前に過去が走馬灯のように蘇るって聞いたことがあるだろう。時間の
流れなんて、頭蓋骨という密室に閉じ込められた脳味噌にとっては相対的なも
のでしかない。極限のコンセントレーションの元では、時間は緩やかに流れる。
これは、プロスポーツの世界を例にあげるまでもなく理解できるだろう」
言わんとしていることはわかる。
恐怖心もまた、コンセントレーションの要因なのだろう。
「このゲームの面白いところは、着地するタイミングが本来のそれよりズレた
瞬間に、屋上からの転落という事態を想起させることにある。そしてわずかに
遅れて、イメージではなく本当の自分自身が着地する。不可避の死からの生還。
このコンマ何秒の世界に生と死と再生が詰まっている」
淡々と語るその顔に、喜びと翳りのようなものが混在しているように見えた。
「じゃあもう一度」
言われるがままに、再び目をつぶる。しゃがんでくるくると回る。立ち上がる。
「こっちだよ」
右前のあたりから声が聞こえた。そちらへ向かって跳ぶ。
地面がない。
死ぬ。
そう思った瞬間に着地する。
なぜか泣きそうになった。こんなゲームを面白いと感じる自分自身が怖くなる。
風は凪いだままだった。
「もう一度」
448 跳ぶ ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 23:03:21 ID:OPG460nV0
だれもいない深夜の校舎の屋上で二人、生と死とそして再生を繰り返している。
気がつくと仰向けにひっくり返って、満天の星空を見上げながら涙を流していた。
デネブ
ヴェガ
アルタイル
夏の大三角形がいびつに、ぼやけて見えた。
師匠の顔がそれにかぶさり、「次が最後だ」と言った。
俺はのろのろと起き上がり、屋上の縁に立つ。しゃがまなくても回れた。
再び、世界は暗闇に閉ざされ、自分の位置がつかめなくなる。
そして闇を切り裂く一筋の光のような、その声を待つ。
……
声はない。
静かだ。
いつまで待っても声はなかった。
賭けろというのだろうか。
たったひとつしかない自分の命を。二分の一に。
想像する。ここまま跳べば、相対的な着地時間はいままでよりはるかに長くな
るだろう。それは、自由落下運動の方程式から導き出される地上までの時間と、
きっと等しいはずだ。いや、ひょっとするともっともっと長く、このささやかな
人生を振り返れるくらいに長い落下になるのかも知れない。
師匠は、もし今俺が断崖に正対して立っていたら止めてくれるだろうか。答え
がないのが、このまま跳べば大丈夫だという答えそのものなのだろうか。
薄目を開けたくなる衝動に襲われる。
449 跳ぶ ラスト ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 23:04:16 ID:OPG460nV0
だがそれをすれば、あの生と死と再生の快感は消え去るだろう。その刹那の時間
は抗いがたい蠱惑的な魅力を秘めている。
跳ぶか、跳ばざるか。
沈黙する宇宙で、孤独だった。
やがて時間が過ぎ、俺はゆっくりと目を開けた。
その前に広がっていた景色は、いまだに俺の脳裏に焼きついて離れないでいる。
結局、どんなに霊感が上がって別の世界を覗き見ることが出来ても、俺の辿り
着ける場所は限られている。その先には底知れない断崖があり、その向こうに広
がる世界にいる人にはけっして近づけない。それを知った。
その日、立ち尽くす俺に「帰ろう」と言った師匠は、優しく、冷たく、そして
どこか悲しげな目をしていた。
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大学2回の冬。
昼下がりに自転車をこいで幼稚園の前を通りがかった時、見覚えのある後ろ姿が
目に入った。白のペンキで塗られた背の低い壁のそばに立って、向こう側をじっと
見ている。
住んでいるアパートの近くだったので、まさかとは思ったが、やはり俺のオカルト
道の師匠だった。
子どもたちが園庭で遊んでいる様子を一心に見つめている20代半ばの男の姿を、
いったいどう表現すればいいのか。
こちらに気づいてないようなので、曲がり角のあたりで自転車を止めたまま様子を
伺っていると、やがて先生に見つかったようで「違うんです」と聞こえもしない
距離で言い訳をしながらこっちに逃げてきた。
目があった瞬間、実に見事なバツの悪い顔をして「違うんだ」と言い、そしてもう
一度「違うんだ」と言いながら曲がり角の塀の向こうに身を隠した。俺もつられて
そちらに引っ込む。
「あの子を見てただけなんだ」
遠くの園庭を指差しているが、ここからではうまく見えない。
「あの青いタイヤの所で地面に絵を描いてる女の子」
首を伸ばしても、角度的に木やら壁やらが邪魔でさっぱりわからない。
なにより、なにも違わない。
「いつから見てたんですか」
との問いに「ん、1ヶ月くらい前から」とあっさり答え、ますます俺の腰を引かせ
てくれた。
「そんなにかわいいんですか」
言葉を選んで聞いたつもりだったが、「かわいいかと問われればイエスだが、
《そんなに》って頭につけられるとすごく引っ掛かる」と、不快そうな顔をする。
「1ヶ月前、最初に足を止めたのはあの子じゃなく、あの子のそばにいた奇妙な物
体のためだよ」
物体という表現が、なんだか気持ち悪い。
「それは見るからにこの世のものではないんだけど、あの子はそれを認識していなが
ら怯えている様子はなかった。他の子や先生には見えてすらいないようだった」
その子は、いつもひとりで遊んでいたという。
砂場あそびの仲間に誘われることもなく、かといって他の園児からからかわれるこ
ともなく、ただひたすらひとりで絵を描いている。
親が迎えに来る時刻になるまで、ずっとそうしているのだという。
「他の子が帰っても、なかなかあの子の親は来ないんだ。日が暮れそうになってか
らようやく若い母親がやって来るんだけど、なんていうかまともな親じゃないね。
あの子の顔を見ないし、手の引き方なんて地面に生えた雑草を引っこ抜くみたい
な感じ。虐待? まあ、服から見えてる部分には痕がないけど、どうだろうね」
気分の悪くなる話だ。
だが、この異常なオカルト好きがこんなに執着するからには只事ではないのだろ
う。
「イマジナリーコンパニオンって、知ってるかい」
聞いたことは、あった。
「まあ、簡単にいうと幼児期の特徴的な幻覚だね。頭の中で、想像上の友だちを
つくりあげてしまう現象だ。ただ子どもには幻を幻と認識する力がなくて、普通
の友だちに接するようにそれに接してしまい、周囲の大人を困惑させることがあ
る。人間関係を構築するための、ある程度の社会性を身につけると自然に消えて
いくものだけどね」
それならば俺にも経験がある。
と言っても覚えているわけではないが、両親いわく「お前は仮面ライダーと喋っ
てた」のだそうだ。
まだしもかわいい方だ。
『ゆうちゃん』とかありそうな名前をつけて、誰もいないのに「ゆうちゃんもう帰
るって」なんて言われた日には親は気味が悪いだろう。
もう一度身を乗り出して幼稚園の庭を覗いてみる。
帽子の色で、年齢をわけているようだ。
青いタイヤのあたりには、赤い帽子が見える。赤の帽子は年長組らしい。
目を凝らすと、おさげらしき髪型だけが確認できた。
師匠の言う、奇妙な物体は見えない。
しかしこの異常に霊感の強い男に見えるということは、ただの想像上のともだちで
はないということなのか。
「いや、霊魂なんかじゃないと思う。気味の悪い現われ方をしてるけど、あの子な
りのイマジナリーコンパニオンなんだろう。僕にも見えてしまったのは、何故
なのかよくわからない。ひょっとしたら彼女の感覚器がとらえているものを、
混線したようにリアルタイムで僕のアンテナが拾ってしまっているのか……」
あの子は強烈な霊媒体質に育つかもね。
そう言って師匠は慈しむような目で幼稚園児を見つめるのだった。
攣りそうなくらい首を伸ばしても、その女の子の輪郭以外には何も周囲に見あたら
ない。
追いかけっこをしている一団がタイヤの前を駆け抜けて、その子の描いている絵の
あたりを踏んづけていった。
ここからでは表情は分からないが、淡々と絵を直しているようだった。
「で、その空想のともだちってどんなのです? 今もあの子の近くにいるんですか」
師匠は、「う〜ん」と唸ってから「なんといったらいいのか」と切り出した。
「2頭身くらいのバケモノだね。顔は大人の女。母親じゃない。実在の人物なのか
もわからない。けどたぶんあの子になんらかの執着心を持っている。体は紙粘土
みたいなのっぺりした灰色。小さな手足はあるけど、あんまり動きがない。ニコ
ニコ笑ってる。あの子の絵の上でゆらゆら揺れている。今、僕らの方を見ている」
一瞬にして、鳥肌が立った。
誰かの視線をたしかに感じたからだ。
「普通、他の子どもが大勢いる場所ではイマジナリーコンパニオンは現れない。本
人にとって孤独さを感じる場面で出現するケースが多い。だけどあの子の場合は、
幼稚園という空間さえ極めて個人的なものになってしまっているらしい。今はあ
の物体に完全に捕らわれているように見える」
一度、迎えに来た母親の後をつけようとしたけど少し離れたところに高そうな車を
とめてあって無理だった、と師匠は言った。
その時、白い壁の向こう側でエプロン姿の若い先生と、園長先生らしき年配の女性
がこちらを指差して何事か話しているのが目に入った。
焦った俺はとりあえず自転車に飛び乗って逃げた。
あとから師匠が手を振りながら走ってついて来ているのに気づいていたが、無視した。
部屋の外にいても、テレビがついているのがわかる。
音なのかなんなのかよくわからないが、とにかくわかる。周囲の人に聞いても
「あ、わかるわかる」と同意してくれるのでたぶん俺だけではないはずだ。
だからそのときも、ただわかったからわかったとしか言いようがないのだった。
幼稚園から逃げ出したその日の夜である。
そのころ完全に電気を消して寝るくせがついていたので、ふいに目を覚ましたとき
も暗闇の中だった。
自分の部屋の見慣れた天井が、うっすらと見える。ベッドの上、仰向けのまま半ば
夢心地でぼーっとしていると、テレビがついているのに気がついたのである。
部屋の中のテレビではない。薄いドアを隔てた、向こうの台所でどうやらテレビが
ついているようだ。
そちらに目を向けるが、ドアについている小さな小窓の輪郭がかすかにわかる程度
で、その小窓の向こうには光さえ見えない。
音でもない、光でもない。
けれどテレビがついているのがわかるのである。
もちろん台所にテレビなどない。
俺は半覚醒状態のまま、ただただ不思議な気持ちでベッドからのそりと起き上がり、
ふらふらと手探りでドアに向かった。
電気をつけるという発想はなかった。つけたら眩しいだろうなと寝ぼけた頭で考えた
のだと思う。
ゆっくりとドアのノブに手をかけ、向こう側へ押し開ける。
薄暗闇のなか、空中に女の顔が浮かんでいるのが見えた。
いや、顔だけではなかった。冗談のような小さな胴体と手足が粘土細工のように
くっついている。
それがふわふわと台所のある空間に漂っているのだった。
そのとき、怖いと思ったのかは覚えていない。ただ気がつくと俺は自分のベッド
に戻っており、仰向けのいつもの姿勢で朝の目覚めを迎えたのだった。
夜の出来事を反芻して、鳥肌が立つような気持ち悪さに襲われ、"連れて来てしまった"
んじゃないかと身震いした。
朝から師匠の部屋に転がり込んで、そのことを話すと「そんなはずない」と言って笑う
のだ。
幽霊じゃないんだから。あの女の子の見ている幻を、その子がいない場所でどうして
別の誰かが体験できるっていうんだ。夢でも見たんだろう。
師匠はそんな言葉を並べ立て、俺もだんだんとそんな気になりかけていた。
思いつきで、その女の顔が、ある芸能人に似ていたことを口にするまでは。
それを聞いたとたんに師匠の顔つきが変わり、その名前をもう一度俺に確認した。
どうやら師匠の見ていた顔と同じ印象を俺が持ったことに、納得がいかないらしい。
「そうか、わかった」
師匠はニヤリと笑うと、説明した。
あの幼稚園の女の子も、その芸能人の面影にわずかに似ているらしい。ということ
はつまり、自分自身のイマジナリーコンパニオンに似ているということだ。
女の子は想像上のともだちとして自己を投影した理想的大人を仕立て上げ、自分を
愛さない母親の代わりにいつもそばにいてくれる存在としたのだ。
母親のようにはならない、という反発心から母親とは違う大人に成長した自分を
イメージして。そして"ともだち"として相応しい等身にして……
そんな仮説をスラスラと口にする師匠に、俺は言った。
「俺、その子の顔なんて見てないですよ。あんな距離じゃ、全然。目が悪いの
知ってるでしょ」
俺が女の子の顔から、その芸能人を連想したということを言いたかったらしい
師匠は沈黙した。
それからしばらくして、ゆっくりと顔を上げ、真剣な目をして言うのだ。
「あれが、イマジナリーコンパニオンなんかじゃなく、霊的なものだとするなら、
おまえの部屋に出たってことがどういうことかわかってるのか」
その言葉を聞いた瞬間、悪寒が全身を駆け抜けた。
あからさまに怯え始めた俺を見て、師匠は膝を叩いて言う。
「よし、なんだかわかんないものはとりあえずブッ殺そう」
やたら頼もしい言葉に頷きそうになるが、穏便にお願いしますというジェスチャー
で返す。
「冗談だ」
笑っているが、どこまで本当かわからない。
まあ放っとこう。どうせとり憑かれてるのは、あの子だ。なんならここに2、3日
泊まってけばいい。たいていのヤツなら逃げてくよ。
そんなハッタリめいたことを言う。まるでこの安アパートが霊場のような言い草
だ。
けれど少し、気が楽になった。
結局その2頭身の女のバケモノは、2度と俺の前に現れなかった。
師匠も、その正体を結論付ける前に警察を呼ばれてしまい、2度とその幼稚園
には近づけなかったらしい。
警察は霊なんかよりずっと怖い、と後に彼は語っている。
|
大学1回生の秋。
その頃うちの大学には試験休みというものがあって、夏休み→前期試験→
試験休みというなんとも中途半端なカリキュラムとなっていた。
夏休みは我ながらやりすぎと思うほど遊びまくり、実家への帰省もごく短い
間だった。
そこへ降って沸いた試験休みなる微妙な長さの休暇。
俺はこの休みを、母方の田舎への帰省に使おうと考えた。
高校生の時に祖母が亡くなってその時には足を運んだが、まともに逗留すると
なると中学生以来か。母の兄である伯父も「一度顔を出しなさい」と言ってい
たので、ちょうどいい。
その計画を、試験シーズンの始まったころにサークルの先輩になんとはなしに
話した。
「すごい田舎ですよ」
とその田舎っぷりを語っていたのであるが、ふと思い出して小学生のころに
そこで体験した「犬の幽霊」の話をした。
夜中に赤ん坊の胴体を銜えた犬が家の前を走り、その赤ん坊の首が笑いながら
後を追いかけていくという、なんとも夢ともうつつともつかない奇妙な体験だ
った。
先輩は「ふーん」とあまり興味なさそうに聞いていたが、俺がその田舎の村の
名前を出した途端に身を乗り出した。
「いまなんてった?」
面食らって復唱すると、先輩は目をギラギラさせて「つれてけ」と言う。
俺が師匠と呼び、オカルトのいろはを教わっているその人の琴線に触れるもの
があったようだ。
伯父の家はデカイので一人二人増えても全然大丈夫だったし、おおらかな土地
柄なので友人を連れて行くくらいなんでもないことだった。
「いいですけど」
結局師匠を伴って帰省することとなったのだが、それだけでは終わらなかった。
試験期間中にもかかわらず俺は地元のオカルト系ネット仲間が集まるオフ会に
参加していた。
そんな時期に試験があるなんてウチの大学くらいなわけで、フリーターや社会人
が多いそのオフ会はお構いなしに開かれた。それなら参加しなければいいだけ
の話のはずだが、オカルトに関することに触れている時間がなにより楽しかった
そのころの俺は、あたりまえのようにファミレスに足を運んだのだった。その後
の2年間の留年の契機がもう始まっていたと言える。
「試験休みに入ったら、母方の田舎に行くんスよ」
そこでも少年時代の奇妙な体験を披露した。
反応はまずまずだったが「子供のころの話」というフィルターのためか、オカル
トマニア度の高い方々のハートにはあまり響かなかったようだ。すぐにそのころ
ホットだった心霊スポットであるヒャクトウ団地への突撃計画へ話が移っていっ
た。
ところがそれを尻目に、ある先輩がつつッと俺の隣へやってきて「おまえの田舎
は四国だよな」と言う。
オフでも「京介」というネット上のハンドルネームで呼ばれる人で、ハッとする
ほど整った顔立ちの女性だった。俺はこの人に話しかけられると、いつもドキド
キしてそれに慣れることがない。
「そうです」
と答えると、真面目な顔をして「四国には犬にまつわる怪談が多い」と言った。
そして「なんと言っても、おまえの故郷は犬神の本場だ」と、何故か俺の肩を
バンバンと叩くのだった。
「犬神ってなんですか」という俺の問いに、紺屋の白袴だと笑い「犬を使って人
を呪う術だよ」と耳元で囁いた。ヒャクトウ団地突撃団の怪気炎が騒々しかった
ためだが、耳に息が掛かって、それがどうしようもなく俺をゾクゾクさせた。
田舎はどんなところだと聞くので、先日師匠にしたような話をした。
そして村の名前をだした瞬間に、まるで先日の再現のように身を起こして「ほん
とか」と言うのである。
これには俺の方が狐につままれたような気持ちで、誘うというより半ば疑問系
に「一緒に行きますか?」と言った。
京介さんは綺麗な眉毛を曲げて「うーん」と唸ったあと、「バイトがあるから
なあ」とこぼした。
「コラ、おまえらも行くんだぞヒャクトウ団地」
他のメンバーから本日のメインテーマを振られて、その話はそれまでだった。
けれど俺は見逃さなかった。
「バイトがあるから」と言った京介さんが、そのあと突撃団の輪に背を向けて
小さなスケジュール帳をなんども確認しているのを。
京介さんはたぶん、行きたがっている。バイトがあるのも本当だろうが、なか
ば弟分とはいえ、男である俺と二人で旅行というのにも抵抗があるのだろう。い
や、案外そんなことおかまいなしに「いいよ」とあっさり承知するような人かも
しれない。「一緒に行きますか」などとサラリと言えてしまったのも、きっと
そういうイメージがあったからだ。
ともかく、あと一押しだという感触はあった。一瞬、二人で行けたらなあという
楽しげな妄想が浮かんだが、師匠も来るのだということを思い出し、少し残念な
気持ちになった。
しかし、師匠と京介さんというコンビの面白さは実感していたので、これはなん
としても二人セットで来させたい。ところがこの二人、水と油のように仲が悪い。
一計を案じた。
オフ会がハネたあと、散会していく人の中からCoCoさんという、その集まりの
中心人物をつかまえた。彼女も俺と同じ大学だったが、試験などよりこちらの
ほうが大事なのだろう。そして彼女は師匠の恋人であり、京介さんとも親しい
仲であるという、まさに味方に引き入れなければならない人だった。
CoCoさんはあっさりと俺の計画に乗ってくれた。
むしろノリノリで、ああしてこうして、という指示まで俺に飛ばし始めた。
簡単に言うと、師匠には「師匠、俺、CoCoさん」の3人旅行だと思わせ、京介
さんには「京介さん、俺、CoCoさん」の3人旅だと思わせるのだ。
いずれ当然バレるが、現地についてしまえばなし崩し的にどうとでもなる。つま
りいつもの俺の手口なのだった。
翌日、CoCoさんから「キョースケOK」とのメールが来た。
同じ日に、「なんか、一緒に来たいって行ってるけどいいか?」と、CoCoさんの
同行を少し申し訳なさそうに師匠が尋ねてきた。もちろん気持ちよく了承する。
これで里帰りの準備が整った。
そして試験の出来はやはり酷いものだった。
俺と師匠は南風という特急電車で南へ向かっていた。
甘栗を食べながら、俺は師匠に「何故俺の田舎に興味があるのか」という最大
の疑問をぶつけていた。
京介さんとCoCoさんは一つ後の南風で来るはずだ。
師匠にはCoCoさんが用事があり、少し遅れて来ることになっており、京介さんに
対しては、俺は一日早く帰省して待っていることになっていた。
「う〜ん」
と言ったあと、もう種明かしをするのはもったいないな、という風を装いながら
も、師匠は俺の田舎に伝わる民間信仰の名前を挙げた。
なんだ。
そんな拍子抜けするような感じがした。
田舎で生活する中でわりと耳にする機会のある名前だった。別段特別なものと
いう印象はない。
具体的にどんなものかと言われると少し出てこないが、まあ困ったことがあった
ら、太夫(たゆう)さんを呼んで拝んでもらうというようなイメージだ。それは
田舎での生活の中に自然に存在していたもので、別段怪しげなものでもない。
もっとも、一度か二度、小さいときになにかの儀式を見た記憶があるだけで、
どういうものかは実際はよくわからない。
どうして師匠がそんなマイナーな地元の信仰を知っているのだろうと、ふと思
った。京介さんもやっぱりそれに対して反応したのだろうか。
「それ、なんですか」
窓の外に広がる海を頬杖をついて見ていた師匠の首筋に、紐のようなものが見えた。
「アクセ」
こっちを見もせずにそう言ったものの、師匠がアクセサリーの類をつけるところ
を見たことがない俺は首を捻った。
俺の視線を感じたのか胸元に手をあてて、師匠はかすかに笑った。
その瞬間、なんとも言えない嫌な予感に襲われたのだった。
ガタンガタンと電車が線路の連結部で跳ねる音が大きくなった気がして、俺は理
由もなく車内を見回した。
いくつかの駅で停まったあと、電車はとりあえずの目的地についた。
「ひどイ駅」
と開口一番、師匠は我が故郷の駅をバカにした。
駅周辺にある椰子の木を指差してゲラゲラ笑う師匠を連れて街を歩く。「遅れて」
来るCoCoさんを待つ間、昼飯を腹に入れるためだ。
途中、ボーリング場の前にある電信柱に立ち寄った。
地元では通の間で有名な心霊スポットだ。夜中、その前を歩くと電信柱に寄り添
うように立つ影を見るという。見たあとどんな目に会うかという部分は、様々な
ヴァリエーションが存在する。
話を聞いた師匠は「ふーん」と鼻で返事をして周囲を観察していたかと思うと、
やがて興味を無くして首を振った。
先に進みながら師匠を振り返り、「どうでした」と聞くと、Tシャツの襟元を
パタパタさせながら「なにかいるっぽい」と言った。
なにかいるっぽいけど、よくわかんない。よくわかんないってことは、大した
ことない。大したことないってことは、よけいに歩いて暑いってことだよ。
不満げにそう言うのだった。
確かに暑い日だった。本格的な秋が来る前の最後の地熱がそこかしこから吹き
上がって来ているようだった。
師匠が「サワチ料理が食いたい」と、まるでトルコに旅行した日本人がいきなり
シシケバブを食べたがるようなことを言うので、昼から食べるものではないと
いうことを苦心して納得させ、二人で蕎麦を食べた。
アーケード街をぶらぶらと散策したあと駅に戻ると、ワンピース姿のCoCoさんと
いつもと同じジャケット&ジーンズの京介さんがちょうど改札を出て来る所だった。
「よお」と手を上げかけて、京介さんの動きが止まる。
師匠も止まる。
と思ったのもつかの間、一瞬の隙をつかれてチョークスリーパーに取られる。
「何度引っ掛けるんだお前は」
頭の後ろから師匠の声がする。口調が笑ってない。
「何度引っ掛かるんですか」
俺は右手を必死に腕の隙間に入れようとしながらも強気にそう言った。
向こうでは、踵を返そうとする京介さんをCoCoさんが押しとどめている。
俺とCocoさんの説明を中心に、師匠がよけいなことを言って京介さんが本気で
怒る場面などを経て、実に15分後。
「暑いし、もういいよ」
という京介さんの疲れたような一言で、同行四人という状況が追認されることに
なった。
思うにこの二人、共通点が多いのが同族嫌悪となっているのではないだろうか。
無類のオカルト好きであり、ジーンズをこよなく愛し、俺という共通の弟分を
持ち、それからこの後に知ったのであるが二人とも剣道の有段者だった。
俺はよくこの二人を称して磁石のS極とS極と言った。その時もお互いの磁場の
分だけ距離を置いていたので、その真ん中でCoCoさんにだけ聞こえるようにその
例えを耳打ちすると、彼女は何を思ったのか「二人とも絶対Mだ」とわけのわか
らない断言をして、俺にはその意味がその日の夜までわからなかった。
夜になにかあったわけではない。ただ俺がそれだけ鈍かったという話だ。
ただ一つ、そのときに気になることがあった。
さっき師匠にチョークスリーパーを掛けられた時に感じた不思議な香りが、かす
かに鼻腔に残っている。
まさかな。
そう思ってCoCoさんを見たが、あいかわらず何を考えているのかよくわからない
表情をしていた。
そうしているうちに、駅のロータリーに車がついた。
四人の前で作業着を着た初老の男性が車から降りながら手を振る。
伯父だった。
バスなり電車なりで行けるよ、とあれほど言ったのに「ちょうどこっちに出て
くる用事があるき」と車で迎えに来てくれたのだった。
ところどころに真新しい汚れのついた作業着を見て、そんな用事なんてなかった
ことはすぐわかる。
久しぶりの俺の帰省が嬉しかったのだろう。俺が連れてきた初対面の3人と愛想
よく握手をして、「さあ乗ったり乗ったり」と笑う。
ここから村までは車で3時間は掛かる。
車内でも伯父はよく喋り、よく笑い、それまでの険悪なムードはひとまず影を
潜めた。
日差しの眩しい国道を気持ち良く疾走する車の、窓の向こうに広がる景色を眺め
ながら、俺は来て良かったなあと気の早いことを考えていた。
思えば、その無類のオカルト好きが二人揃って俺の帰省について来ると言い出し
た事態の意味を、その時もう少し考えてみるべきだったのかも知れない。
紺屋の白袴と笑われても仕方がない。俺は、俺のルーツでもある山間部の因習と
深い闇を、知らな過ぎたのだった。
だがとりあえず今のところは、ひたすらに暑い日だった。
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そもそもの始まりは、大学1回生の秋に実に半端な長さの試験休みなるものがぽ
っこりと出現したことによる。
その休みに、随分久しかった母方の田舎への帰省旅行を思いついたのだが、それが
どういうわけか師匠、CoCoさん、京介さんという3人の先輩を引き連れての道ゆきと
なってしまった。
楽しみではあったが、そこはかとない不安がどんよりと道の先にあるのを俺は見て見
ぬ振りをしていたのだった。
駅まで迎えに来てくれた伯父の車は7人乗りだったが、助手席に伯父の家で飼って
いる柴犬が丸まって寝ていたので京介さんとCoCoさん、俺と師匠という並びでそれぞ
れ中部座席、後部座席に収まっていた。
俺としては、その柴犬がまだ生きていたことにまず驚いた。
耳の形に見覚えのある特徴があったので、その子供かと思ったのだが「リュウ」本人
なのだという。20歳は確実に超えているはずだ。伯父にリュウの歳を聞くと、「忘
れた」と言って笑うだけだった。
「こいつはドライブが好きでなあ、昔ゃよう連れてったもんじゃけんど、最近は全
然出たがらんなっちょったがよ。今日は珍しい」
京介さんが頷きながら手を伸ばし、前の座席で寝そべっているリュウのお尻のあた
りを撫でる。リュウはちらっとだけ視線を向けて、また静かに目を閉じた。
車は快調に国道をとばしていた。
山間の道をひたすらに東へ進む。右手に川が現れて、ゴツゴツした巨大な岩が視界
に入ってはすぐに後方へ飛び去っていった。
「なんちゃあないろう」
何もないところだろう。
そういう伯父の言葉には変に飾ったところも、卑屈なところもなく、気持ちが良
かった。
CoCoさんが土地のことなどあれこれを聞き、京介さんもいつになく口が滑らかだった。
伯父が言った冗談に師匠がやたらウケて笑い声をあげ、その余韻で楽しそうに隣の
俺の肩を叩きながら顔を寄せて、表情とまったく違う冷めた調子で「ところで」と
言った。
「僕が今見ているものを、伝えてもいいか」
俺にしか聞こえないくらいの小さな囁き声に、いきなり冷水をかけられたような気
分になった。
日差しの強かったはずの窓の外が急に暗くなり、国道のすぐ横を流れている川は闇
に消えるように水面も見えなくなった。
そしてあたりから音が消え、車のフロントガラスの向こうには黒い霧が渦を巻いて
いる。
やがて川沿いのガードレールのあたりに、凍りついたような青白い人の顔がいくつも
並びはじめた。
暗くて首から下は見えない。顔だけがのっぺりと浮かび上がっている。男の顔もあ
れば女の顔もある。それも、大人が道路ぶちに立っているような高さのものもあれ
ば、その半分の高さのもの、はるか見上げるような位置にあるもの、地面に落ちて
いるもの、様々な顔が、しかしどれも無表情でこちらを見ているのだった。
そして無表情のまま、その顔たちはそれぞれ口を微かに開いている。
音もなく車の窓ガラス越しに視界は走り、手を伸ばせば届きそうな距離に、暗闇に
浮かぶ顔がまるで上下にうねる様な連続体となって見えた。それぞれの口の形は、
連続することによっていくつかの単語を脳裏に強制的に想起させようとしていた。
自分の心臓の音だけが響き、俺は暗い窓の外から目を離せないでいる。
「なにを吹き込んでるんだ」
京介さんのその声に、ふいに我に返った。
世界に、音が戻ってきた。暗かった視界も一瞬のうちに霧が晴れたように元に戻り、
アスファルトの照り返しが目に飛び込んでくる。
師匠がすぅっ、と近づけていた顔を遠ざける。
「別に、なにも」
京介さんがこちらを睨む。
「あと30分くらいで着くきに」
伯父が能天気な声でそう言った。
京介さんが前に向き直ると、師匠はまた顔を寄せてきて「怖いな、アイツ」と言う。
俺はさっきの体験を反芻して、どうやら「師匠が見ているもの」の説明を聞かされ
ているうちに、まるで白昼夢のようにリアルな再構築を脳内で行ってしまったと結論
づける。もちろん、催眠術をかじっているという師匠のイタズラには違いない。
その師匠が「僕の見ている世界はどうだった」と聞いてくる。
「あの顔はなんですか」と囁き返す。あの幻からは”拒絶”という確かな悪意が感
じられた。ところが師匠は、それをお化けとも悪霊とも呼ばなかった。
「神様だよ」
塞の神。馴染み深い言葉でいえば道祖神。
そんな言葉が耳元に流れてくる。
「男の顔も、女の顔もあっただろう。双体道祖神といって、それほど珍しくもない
男女2対の道の神様だ。辻や道の端にあり旅人の安全を祈願すると同時に、村や
集落といった共同体への異物の侵入を防ぐ役割を果たしている。たぶんこの道路
沿いのどこかに石に彫られたものがあったはずだ」
「……異物ってなんですか」
俺の問いに師匠は可笑しそうに囁いた。
「疫病とか悪霊とか、ソトからもたらされる害悪の源。鬼はソト、福はウチってね。
幸いをもたらすものは歓迎し、災いをもたらすものは拒絶する。道祖神はその線
引きをする、果断な性格の神様だね」
もちろんウチにいる者にとっては、何も気にする必要のない、無害な神様さ。
師匠はそう言って嬉しそうに続ける。
「僕くらい、いろんなビョーキを持ってソトからやってくる人間は別だけど」
ビョーキ。
ここではなんの隠語なのか、すごく気になるところだったが師匠は京介さんの視線
を感じたらしく、また自分の座り位置に戻っていった。
車は国道から離れ、村道だか県道だかの山道へと入っていった。
窓の外いっぱいに広がる緑の木々を視界の端に捕らえながら、俺の頭の中には『僕
の見ている世界』という単語がへばりつく様に離れないでいた。
師匠はいつも、あんな底冷えのするような悪意の中を生きているのだろうか。
伯父がまたなにか冗談を言ってCoCoさんが笑い声をあげたとき、師匠がふいに顔を
寄せ、囁いた。
「あんなに強いのは珍しい。これも土地柄かな」
車が、ようやく止まった。
思ったより早く着いた。道がよくなったのだろうか。連れてこられたことしかない
自分にはよくわからなかった。
「さあ降りとうせ」という伯父の声に、俺たちは外に出る。
見渡す限りの山の中だ。目を上げると、谷を隔てた山向こうの峰はなお高い。
思わず小さいころよくやった「ヤッホー」という声をあげたくなる。
そして懐かしい伯父の家が、ささやかな石垣の中の広い敷地に、昔のままで立って
いた。
それは子供のころは、「おばあちゃんの家」だった。
高校1年生の時に祖母が亡くなるまでは。その時の滞在は、葬式のために慌しく過
ぎてしまって、あまり印象が無い。
「ヘェヘェ」と疲れたような声を出して、リュウが足元を通り過ぎようとした。
ガシッと捕まえて、顔を両手でグリグリと揉む。
「こらおまえ、葬式ン時もいたか?」
されていることに全く関心が無い様子で、何も言わずにされるがままになっている。
「あらあらあら」
という甲高い声とともに、家の玄関から布巾で手を拭きながら伯母が出てきた。
その後は、久しぶりに会った親戚の子どもに対するごく一般的なやりとりが続き、
連れの仲間たちの紹介を終えて、ようやく俺は伯父の家の畳の上に尻を落ち着けた。
「みんなお昼は食べたが?」という伯母の言葉に頷くと、「じゃあ晩御飯はご馳走
にしちゃおき、体でも動かしてきぃ」と言われた。
それに適当に返事をし、あてがわれた部屋に荷物を置くと、とりあえず大の字にな
って、車内でずっと曲げっぱなしだった足を思う存分伸ばす。
さすがに田舎の家は広い。記憶の中ではもっと広かった。
2階建てのその家は、大昔に民宿をしていたというだけあって、部屋の数も多い。俺
たち4人全員に一部屋ずつあてがっても十分足りたのだろうが、男2女2というこ
とでふた部屋を間借りすることにした。
「広れェー」と言いながら師匠と二人でゴロゴロ転がったあとで、廊下を隔てた女
部屋を覗いた。
襖の隙間に片目を当てながら、「おい」「どっちが広い」「おい、こっちの部屋よ
り広いか」などという師匠の声を背中で受け流していると、いきなり中から現れた
京介さんに「死ね」と言われながらドツかれた。
すごすごと部屋に戻ると玄関の方から若い男の声が聞こえた。
出て行くと、近所に住む親戚のユキオだった。
顔を見ると懐かしさがこみ上げてくる。子供のころは夏休みにこの家へやってくる
たびに遊んだものだ。どうしてる、と聞くと「役場で、しがない公務員じゃ」と、
はにかんだように笑う。そういえばたしか俺より2つ歳上だった。
「じゃ、今は昼休みじゃき、また晩にでも寄るわ」
ユキオはそう言って家にも上がらずにスクーターにまたがった。
どうやら仕事に戻った伯父が、道ですれ違いざまに俺が来てることを話したらしい。
時計を見ると、15時をだいぶ回っている。ずいぶんと大らかな昼休みだ。
「さあ、これからどうしましょうか」
4人で集まって、何をするか話し合った。
じっとしていると背中に汗が浮いてくる。男部屋は窓を大きく開け放ち、クーラー
などつけていない。「らしき」ものはあるが、スイッチを押しても反応はなかった。
「泳ぎに行きましょう」
という俺の意見に、全員が賛成した。
旅行に発つ前にあらかじめ、水の綺麗な川があるから泳げるような準備をしておいて
くださいと伝えてあったので、一も二もない。
少し山を下るので、伯父の家の車を借りた。
向かう先に着替える場所がないので、部屋で水着に着替え、服を羽織って出かけるこ
とにした。
師匠が来た時とは別の白いバンのハンドルを握り、他の3人が乗り込む。
蝉の声の中を車は走り、くねくねと山道を下りていくとやがて一軒の家の前に出た。
「ここに止めてください」
川の近くには車を止められそうなところがない。いつもこの家の敷地の端を借りてと
めさせてもらっていた。
車を降りた。
暑い。
蒸すわけではなかったが、とにかく日差しが強かった。サンダルに履き替えた足が
気持ちいい。
舗装もされていない田舎道を、「次暑いって言ったヤツ罰金」などと言い合いながら
歩いていると、それなりに仲間らしく見えるのだから不思議だ。
つい数時間前に、「どうしてコイツがいるのか」と師匠と京介さん、ともに喧嘩腰だ
ったのを忘れそうになる。
わりとねちっこい師匠に対して、さっぱりしている京介さんの大人の対応が奏功して
いるように思えた。
見通しのいい四つ辻に差し掛かったとき、ふいに俺の前を歩いていた京介さんが「ア
ツッ」と言ってしゃがみこんだ。
師匠が嬉しそうに「今暑いって言った? 暑いって言った?」と言いながら振り返る。
「言ってない」
京介さんはすぐ立ち上がり、右足を気にしながら、なんでもないと手を振ってみせる。
CoCoさんがどうしたのと聞き、京介さんは歩き始めながら「何か踏んだかも」と答え
る。
そんなやりとりのあと、数分とかからずに川に辿り着いた。
山に囲まれた渓谷の中に、ひんやりとした水面がキラキラと輝いている。昔とちっと
も変わらない、澄んだ水だった。
カラカラに乾いた大きな岩の上に服とサンダルを放り投げ、海パン姿になって玉砂
利の浅瀬にそろそろと足を浸す。
冷たい。でも気持ちがいい。ゆっくりと腰まで浸かって、川の流れを肌で感じる。
師匠はというと、準備運動もそこそこにいきなり飛び込んで早くもスイスイと泳い
でいる。
女性陣の二人は水辺で沢ガニを見つけたらしく、しばらくウロウロと足の先を濡ら
すだけだったが、俺が肩まで浸かるころ、ようやく羽織っていた服を脱ぎ水着姿に
なって川の中に入って来た。
下流の方から派手なクロールで戻って来た師匠が、膝まで浸かった女性二人の前で
止まり、水中から首だけを出して「うーん」と唸ったあとでCoCoさんの方に向かっ
て右手で退ける仕草をした。
「もう少し、離れたほうがいい」
その言葉を聞いてきょとんとした後、CoCoさんはおもむろに隣の京介さんの方を
見上げて、ついで足元まで見下ろし、芝居がかった様子でうんうんと頷いてから、
どういう意味だコラというようなことを言って師匠に向かって水を蹴り上げた。
そのあとしばらく4人入り乱れての水の掛け合いが続いた。
やがて俺は疲れて川からあがり、熱い岩の上にたっぷり水をかけて冷ましてから
座り込む。
他の3人は気持ちよさそうに、深さのある下流のあたりを泳ぎ回っている。
俺も泳げたらなあ、と思う。
完全なカナヅチというわけではないが、足がつかないところへは怖くてとても行
けない。溺れる、という恐怖感というよりは、足がつかない場所そのものに対す
る潜在的な恐怖心なのだろう。
なにも足に触れるはずのない水深で、「なにか」に触ってしまったら……
そう思うと、いてもたってもいられず、水から出たくなる。
まして今、川の真ん中に誰のものともつかない土気色をした「手」が突き出てい
るのが見えている状況では、とても無理だ。
「手」に気がついた時にはかなりドキッとしたが、その脈絡のなさに自分でもどう
反応していいのかわからない感じで、とりあえず深呼吸をした。
師匠たちの泳いでいる場所からさらに下流。岩肌の斜面から覆いかぶさるような藪
が突き出ていて、その影が落ちているあたり。
どう見ても人間の手に見えるそれが、二の腕から上を水面に出して、なにかを掴も
うとするように手のひらを広げている。
師匠たちは気づいていない。
俺は眼鏡をそろそろとずらしてみる。
ぼやけていく視界の中で、その「手」だけが輪郭を保っていた。
ああ、やっぱりと、思う。
そこに質量を持って存在する物体であるなら、裸眼で見ると他の景色と同じように
ぼやけるはずなのだ。
この世のものではないモノを見分ける方法として師匠に習ったのだったが、俺は夢
から覚めるための技術として似たようなことをしていたので、わりと抵抗なく受
け入れられた。
悪夢を見てしまうとほっぺたをつねって目を覚ます、なんていうやり方が効かなく
なってきた中学生のころ、俺は「夢なんてしょせん、俺の脳味噌が作り出した世界
だ」という醒めた思考のもとに、その脳味噌が処理しきれないことをしてやれば夢
はそこで終わると考えた。
夢から覚めたいと思ったら、本を探すのだ。
もしくは新聞でもいい。
とにかく、俺が知るはずのないものを見ること。そして、そこに書いてある情報
量がページを構成するのに足りないことを確認し、「ざまあみろ脳味噌」と嗤う。
本質からして都合よくできている夢なのだから、「本を読もう」とすると、それな
りに本っぽいつくりになっているかも知れない。しかし、中身は無理なのだ。世
界を否定したくて文章を読んでいる俺と、世界を成り立たせるために一瞬で構築
される文章、その二つを同時に行うには脳の処理速度が絶対に追いつかない。
そして、化けの皮が剥がれたように夢が壊れていく。
そうして目を覚ますのは俺の快感でもあった。
それと同じことが、この眼鏡をずらす手法にも言える。
仮に途方もなくリアルな生首の幻覚を見たとして、ああ、これは現実だろうかと
考えたとき、眼鏡をずらしてみる。すると、現実には存在しない生首だけは、ぼ
やけていく世界から取り残されたように、くっきりと浮かび上がってくる。もし
脳のなんらかの作用で、「眼鏡をずらしたら生首もぼやける」という潜在的な認
識のもとに生首もぼやけて見えたとしても、それは「その距離であればこのくら
いぼやける」という正確な姿を示さない。必ず他の景色とは「ぼやけ具合」が食
い違って見える。それが一瞬で様々な処理をしなくてはならない脳味噌の限界な
のだと思う。
だが、幻覚はまた、夢とも違う。
ああ、コイツは幻だと気づいたところで、消えてくれるものと消えないものとが
あるのだ。
「うおっ」
という声があがり、CoCoさんとぶつかりそうになった師匠が立ち泳ぎに切り替える。
「川でバタフライするな」
そんなことを言いながらCoCoさんのほうへ水鉄砲を飛ばす。
そのすぐ背後には、水面から突き出た手。
思わず師匠に警告しようとした。
しかし、なにか危険なものであるなら、俺が気づいて師匠が気づかないなんてこと
があるのだろうか。
ならばこれはただの幻なのだ。
俺の個人的な幻覚を、他人が怯える必要はない。
けれど、なぜ今そんなものが見えるのか……
薄ら寒いものが背中を這い上がってくる。
師匠はなにも気づかない様子で再び平泳ぎに戻り、「手」から離れて上流の方へや
ってくる。
俺は「手」から目を離せない。
肘も曲げず、まるで一本の葦のように流れに逆らってひとつ所に留まっている。そ
こからなんらかの意思を感じようとして、じっと見つめる。
ふいにCoCoさんが川縁で声をあげた。
「これって、なんだろう」
そちらを見ると、水面からわずかに出っ張っている石にへばりつくように、白いも
のがある。
近寄って来た京介さんが無造作に指でつまむ。
それは水に濡れた紙のように見えた。
あっ、と思う間もなくその白いものが千切れて水に落ち、流されていった。
指に残ったものをしげしげと見ていた京介さんが、「紙だ」と言う。
「目がある」
そう続けて、残された部分にあるわずかな切れ込みを空にかざした。
たしかにそこには二つぽっかりと穴が開き、それまるで生き物の目を象っているよ
うに見えた。
「よくそんなの触れるな」
師匠がざぶざぶと川から上がりながら言う。
京介さんの視線が冷たく移り、何も返さずにその白い紙を水に投げた。
紙は沈みそうになりながらも流れに乗った。
全員の視線が自然とそこに向かう。
下流で、藪の影が落ちているあたりを通り過ぎるとき、あの「手」がもう見えない
ことに気がついた。
まるで溶けるように消えてしまっていた。
持参していたタオルで体を拭いて、俺たちは河原を出た。
冷たい川の水に浸かったことで、さっきまでのまとわりつくような熱い空気が嘘の
ように霧消して、涼しいくらいだった。
けれどそれも一瞬のことで、歩き始めるとすぐにまたじっとりと汗が浮き出てくる。
車に戻る前に寄り道をして、近くの商店でアイスを買った。店のおばちゃんは見知ら
ぬ若者たちを不審そうに見ながらも、棒アイスを4本出してくれた。そういえば今
日は平日なのだった。まして若者の極端に少ない過疎の村だ。小さい頃、何度かこ
こでアイスを買っただけの俺の顔を覚えていないのも無理はなく、よそ者が来た
という程度の認識しかなかっただろう。
開いてるのかどうかもよくわからない店が3、4軒並んでいるだけの、道端のささ
やかな一角だった。
食べながら帰ろうというみんなに、ちょっと待ってくださいと言いながら俺は店
のおばちゃんに「この先の河原って、最近水難事故かなにか起きましたか」と聞
いてみた。
おばちゃんは眉をひそめ、「最近はないねえ」とだけ言って次の言葉も待たず店の
奥に引っ込んでいった。
ああ、俺もすっかりよそ者なのだなぁと、少し寂しくなった。
その後、アイスをかじりつつ元来た道を歩きながら師匠が言う。
「あの紙は幣だね」
たぶんそうだと答えた。
神様や悪霊を象った紙人形とでも言えばしっくりくるだろうか。この村では、さま
ざまな儀式にその幣を使う。
「なんの幣だった?」
遠目に見ただけだし、目がふたつ開いてるというだけではさっぱりわからない。な
により俺自身が詳しくない。
「川ミサキか、水神かな」
師匠はさらっとそう言う。どこで調べたのか知らないが、俺より知っていそうな口
ぶりだ。
日が翳り始めた道をだらだらと歩いていると、さっきの四つ辻に差し掛かった。
すると、まるでさっきの再現のように京介さんが短い声をあげて道に屈みこむ。
さすがに驚いて大丈夫ですかと様子を伺うと、手で押さえている右のふくらはぎから
薄っすらと血が流れているのが目に入った。
CoCoさんがしゃがみこんで「なにかで切った?」と聞いている。
京介さんは首を横に振る。
切ったって、いったい何で?
俺は周囲を見渡したが、見通しもよく、なにもない道の上なのだ。
カマイタチ。
そんな単語が頭に浮かんだが、師匠が道の真ん中に両手をついて這いつくばってい
るのを見て、一瞬で消える。
目を輝かせて、まるでコンタクトレンズでも探すように土の上に視線を這わせている。
なにをしてるんですか。
その言葉を飲み込んだ。
周囲の空気が変わった気がしたからだ。
足元から、ゆらゆらと悪意が立ちのぼってくるような錯覚を覚えて、身を硬くする。
「おい、よせ」
京介さんは羽織っている上着のポケットから小さな絆創膏を取り出してふくらはぎ
に貼り、立ち上がりながらそう言った。
師匠はそれが聞こえなかったように地面を食い入る様に見つめ、独り言のように呟く。
「なにか、埋まっているな、ここに」
心臓に悪い言葉が俺の耳を撫でるように通り過ぎる。
京介さんが師匠に近づこうとしたとき、チリリンと耳障りな音がして自転車が通
りがかった。
泥のついた作業着を着込んだ中年の男性が、不審そうな目つきでこちらを見ている。
同じ方角からは似たような格好をした数人が自転車で近づいてきている。
四つ辻の真ん中で這いつくばっていた師匠は、なにを思ったかピョンと勢いよく
立ち上がると「腹減った。帰ろう」と言った。
俺は気まずい思いで道をあけて自転車たちをやり過ごす。
通り過ぎた後も、ちらちらと視線を感じた。
ヨソモノヨソモノ。
そんな声が聞こえた気がした。
それも含めて、俺は早くここを立ち去りたかった。率先してもと来た道へ進んで
行き、民家のそばに停めてあった車に乗り込む。
ようやく嫌な感じが収まった。
師匠は上機嫌でエンジンをかけ、ふたたび蛇行する山道を登り始める。CoCoさん
はなにを思ったか京介さんの絆創膏をつっつき、「痛いって」と怒られた。
(ほんとうに傷口があるのか確かめた)
助手席に身を沈めながら、後部座席のやりとりにふとそんなことを思う。ミラー
にうつるCoCoさんの表情からはやはりなにも読み取れなかった。
伯父の家に帰ると、従兄妹のハツコさんが来ていた。伯父夫婦の長女だ。
年が離れていたのであまり印象は残っていないが、今は同じ集落の家に嫁いでい
るらしい。
「今日は応援」と言って小太りの体を機敏に動かしながら、伯母の炊事を手伝っ
ている。
俺たちはというと、夕飯までの時間をそれぞれの部屋で過ごした。
ろくに泳いでいないのに俺はやたら疲れていて、ウトウトしっぱなしだった。
ほどなく茶の間に呼ばれ大所帯での食事が始まった。
近くの山で採れた山菜をふんだんに使った田舎料理は、実家の母が作るものより
「お袋の味」がして、なんだか感傷的になる。
俺たち4人と伯父夫婦。ハツコさんとその小さな子ども。そして実にタイミング
よく現れたユキオ。9人で囲む食卓だった。
なにが凄いって、その人数で囲めるちゃぶ台があることだ。
「いまはもう、こんなでっかいのがいる時代じゃないけんどのう」
と伯父は苦笑した。
この家にはあと一人、ジッサンと呼ばれるお爺さんがいるのだが、寝たきりに近
いらしく食卓には出てこない。
ジッサンと言っても俺の祖父にあたる人ではなく、祖母の兄らしい。らしいとい
うのは、会ったことがないからだ。身寄りがなくなっていたところをこの家で引
き取ったそうだ。俺の足が遠のいてからのことだった。
「にゃあにゃあ」
ユキオがひそひそと口を寄せて来る。
「どっちが彼女なが」
これには彼なりの期待も含まれているのだろう。京介さんCoCoさんも一般的には
美人の部類に入るだろうから。
「どっちも違う」
そう言うと喜ぶかと思いきや、残念そうな様子で、
「両方あの兄さんのか」
と溜息をつくのだ。
「片方だけ」と言ってやると、「ふーん」と鼻で返事をしながら肉系ばかりを箸
でかき集めていった。
その時、家の外に犬の遠吠えが響いた。
「あ、リュウの晩御飯忘れちょった」
そう言って伯母が腰をあげようとするとハツコさんが笑って先に立ち上がった。
俺はふと思い出して、伯父に祖母の葬式の時にリュウがいたかどうか聞いた。
「おらんかったかや」
伯父が首を傾げていると伯母が手首から先を器用に折り曲げながら言う。
「ほら、ジッサンが捨てたあとじゃき」
伯父はオオ、と合点していきさつを話してくれた。
どうやらリュウは祖母の葬式の2ヶ月ほど前に「死んだ」のだそうだ。目をとじて
動かないリュウを見て、まだ足腰がしゃんとしていたジッサンが死んだ死んだと
大騒ぎし、裏山の大杉の根本に埋めに行ったのだが、なんとこれが早合点。自力で
土から這い出てきたらしく、半年くらいたって山中で野良犬をやっていたところを
近くの集落の人が見つけて連れて来てくれたのだそうだ。
この話、俺の連れには大いにウケた。が、俺は(なんだ、やっぱり別の犬なんじゃ
ないか)と思ったが、長年暮らした家族がリュウだというんだから、と考えると
なんだかあやふやになる。
あとでもう一度じっくり顔を見てみようと心に決めた。
それから目の前の料理が減るのに反比例して食卓の会話が増えていき、俺は頃合を
見計らって、口を開いた。
「なんか、いざなぎ流のことを知りたがってるみたいなんだけど」
目で師匠と京介さんを指す。
するとすぐさまユキオが身を乗り出した。
「だったらオレオレ。オレ今、先生について習いゆうがよ」
意外に思って、適当なコト言ってないかコイツ、と疑った。
すると伯母が「あんたは神楽ばあじゃろがね」と笑う。
どうやら先生についているのは本当らしい。
ただ、神楽舞を習っているだけのようだ。いざなぎ流の深奥は神楽ではなく、祈
祷術にあるというのは俺でもわかる。
「まあでもいざなぎ流のことが知りたかったら、誰かに聞かんとわからんき」
ユキオの先生に会わせてもらったらどうか、そう言うのだ。
伯父のその言葉は、いざなぎ流の秘匿性を端的に表している。
そもそも俺の田舎に伝わるいざなぎ流とは、陰陽道や修験道、密教や神道が混淆
した民間信仰であり、それらが混じっているとはいえ、古く、純粋な形で残って
いる全国的に見ても貴重な伝承だそうだ。
祭りや祓い、鎮めなどを行うそのわざはしかし、ほとんど公にはされない。
なぜならそれらは「太夫」から「太夫」へ、原則口伝によって相伝されていくか
らである。
もちろん、その膨大な祈祷術体系を丸暗記はできない。
しかしそのための「覚え書」はまた、師匠から弟子へと門外不出の「祭文」とし
て伝えられるのみなのである。
なにかのお祭りには必ずと言っていいほど太夫さんが絡むが、俺の記憶の中では
その祈祷はただ「そういうもの」としてそこにあるだけで、「何故」には答えて
くれない。
「何をするために、何故その祈祷が選ばれるのか」
何をするためにというのは分かる。川で行われるなら水の神様を祭り鎮めるため
で、家で行われるなら家の安泰のためだ。だが「何故」その祈祷なのか、という
部分には天幕がかかったように見えてこない。祈祷はさまざまな系統に分かれ、
使う幣だけで数百種類もあるのである。
「よっしゃ、明日さっそく行こう」
ユキオは箸をくるくると回して俺たちの顔を見る。
師匠は願ってもない、と頷いた。京介さんは「頼みます」と軽く頭を下げる。
俺は明日も平日だったことを思い出し、ユキオをつついたが「大丈夫、大丈夫」
と請合った。
いろいろと大丈夫な職場らしい。
ユキオとハツコさんたちが帰っていったあと、俺たちは順番に風呂に入ることに
した。夜になってようやく涼しくなってきたが、汗を重ねた肌が気持ち悪い。
女性陣はあとがいいと言うので、まず俺、ついで師匠という順番で入ることにし
た。
早々に俺が風呂からあがり、3人でトランプをしているとTシャツ姿で頭から湯
気を昇らせながら師匠が出てくる。
「あー、気持ちよかったー。風呂に入ったのって半年ぶりくらいだ」
その言葉に女性二人の目が冷たくなる。
「ちょっと」「寄らないでくださる」
ステレオで言われ、師匠は憤慨する。
「って、おい。僕はシャワー派なんだって」
弁解する師匠に冷たい視線を向けたまま二人は女部屋に戻っていく。
「知ってるだろ!」
わめく師匠に、振り向いた京介さんがいつもより強い調子で「死ね」と言った。
俺は笑いをこらえるのに必死だった。
これだよ。
二人を無理やりセットにした甲斐があったというものだ。
それから疲れていた俺たちは早々に床についた。
若者のいないこの田舎の家は寝付くのが早く、あまり遅くまで起きて騒がしくして
も悪いという思いもある。
寝る前にリュウの顔を拝もうと思ったが、犬小屋に引っ込んでしまいお尻しか見え
なかった。
部屋の明かりを消し、扇風機に首を振らせたまま横になるとあっというまに眠りに
落ちた。
どのくらい経っただろうか。
バイクの音を遠くで聞いた気がして、なぜかユキオがまた来た、と思った。
そんなはずはない、と思いながら徐々に頭が覚醒し、むくりと起きる。腕時計を
見ると深夜2時過ぎ。トイレに行こうと起き上がると、隣の布団がカラになって
いることに気づく。「師匠」と小声で呼びかけるが、部屋のどこにもいない。
とりあえずトイレで用を足しに行くと、部屋に帰るときに縁側に誰かの影が映っ
ている。
そっと障子を開けると、京介さんが縁側に腰掛けて夜陰に佇んでいる。
右手には煙草。
こちらに気づいて視線を向けてくる。
「深い森だ」
そうか。京介さんは自分の部屋でないと眠れないということを今更ながら思い出す。
「浄暗という言葉があるだろう。清浄な闇という意味だ」
ここは空気がいい。
そう言って目の前に広がる木々の黒い陰を眺めている。
遠くで湧き水の流れる音が聞こえる。
「師匠を見ませんでしたか」
そう問うと、煙を吐きながら答えてくれた。
「バイクで出て行ったな」
そういえば、伯父から滞在中自由に使いなさいと言われていたことを思い出す。
どこに、と聞こうとしてすぐに聞くまでもないと思いなおした。
明日もいろいろありそうだ。
そう思って、今日のところはきちんと寝ておくことにする。
「おやすみなさい」という言葉に、京介さんは小さく手を振った。
朝が来た。
目を覚ますと、隣で師匠がひどい寝相をしている。
少しほっとする。
伯父夫婦と合わせて6人で朝食をとる。なにか足らない気がした。
そうだ。新聞がない。
「ああ、昼にならんと来ん」
そういえばそうだった。俺のPHSも師匠の携帯も通じない、情報を制限された田
舎なのだ。
食べ終わって、部屋に帰ると師匠に夜のことを聞いてみた。
「行ったんですよね、あの京介さんが怪我をした場所へ」
「うん」と師匠は答え、扇風機のスイッチを入れながら胡坐をかいた。
「なにかあったんですか」
「いや、なにもなかった」
煮え切らない答えに少しイラッとする。あんなやり取りをしておいて、なにもない
はずはない。
すると師匠は意味深に目を細めると、ゆっくりと語った。
「昼にはあり、夜にはなかった」
掘り出されていた、というのだ。
「僕らが気づいたことを、知られたようだ」
言葉の端に、気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「なにが、埋まっていたんですか」
師匠は畳の上にごろんと寝転がった。
「犬神を知ってるかい」
「聞いたことは」
京介さんがこの旅の前に口にしていたのを覚えている。
「古くは呪禁道の蠱術に由来すると言われる邪悪な術だよ。犬神を使役する人間が
他人の物を欲しがれば、犬神はたちまちにその人に災いをなし、その物を与える
まで止むことはない。犬神は親から子へと受け継がれ、その家は犬神筋とか犬神
統などと呼ばれる。犬神筋は共同体の中で忌み嫌われ、婚姻に代表される多くの
交流は忌避される。そのために犬神筋は一族間での通婚を重ね、ますますその"血"
を濃くしていく」
師匠は秘密めかして仰向けのまま指を立てる。
「犬神というのはその名前とは裏腹に、小さな鼠のような姿で描かれることが多い。
もしくは豆粒大の大きさの犬だとする記録もある。犬神筋はそれらを敵対する者
にけしかけ、腹痛や高熱など急激な変調をもたらす。犬神にとりつかれた者は山
伏や坊主などに原因を探ってもらい、どこの誰それの犬神が障っているのだと明
らかにする。その後は、原因と判じられた犬神筋の家へ赴いて……」
「貢物を差し出すわけですか」
口を挟んだ俺に、師匠は首を振る。
「文句を言いに行くんだよ。人の道に外れたことをしやがって、と」
犬神の伝説が息づいているのは、農村地帯がほとんどなのだそうだ。人と人との関
わりが深く濃密な、狭い共同体の中でなにか理不尽な災いが起こった場合、それを
誰か特定の人間のせいにしてしまうのは、日本の古い社会構造の歯車の一つなのだ
ろう。それが差別階級を生む要因にもなっている。
ところが師匠は、この犬神筋についてはいわゆる被差別部落民とは少し意味合いが
違うと言う。
「犬神筋は、裕福な家と相場が決まっている。それも、農村に商品経済、貨幣経
済が浸透しはじめたころに生まれた新興地主がほとんだ。土地を持つこと、そ
して畑を耕すことがすべてだった農村の中に、土地を貸し、貨幣を貸し、商品
作物を流通させることで魔法のように豊かになっていく家が出現する。そして
このパラダイムシフトを理解できない人々は思う。"あの家が金持ちになったの
は、犬神を使っているからだ"と。我々の土地を、財を、貪欲に欲しがり、犬神
を使役してそれらを搾取しているのだと。金がないのも、土地がないのも、腹を
下したのも、怪我をしたのも全部犬神筋のせいだ、というんだ。そう信じること
で、共同体としてなんらかのバランスを保とうとしているのかも知れない」
気がふれるということを、昔の人は狐がついたとか、犬がついたとか言うだろう?
師匠はそう続けながら指を頭のあたりで回す。
「これは犬神に限らず、狐憑きも蛇神筋も猿神筋も同じだ。気がふれたフリをする
のはとても簡単で、しかも何が憑いているのかを容易に表現できるからだ。狐な
ら狐の真似を、犬なら犬の真似をすればいい。そうすれば、憑き物筋という家が
存在し、それが他に害を成しているということを、搾取されている人々の間で
再確認することができる」
ようするに「やらせ」なのだ、というように俺には聞こえた。
犬神は、なにかおどろおどろしい存在なのではなく、いや、それ自体が人の心の
闇を秘めているにせよ、農村における具体的な不満解消のシステムの一つに過ぎ
ないのだと。そう聞こえたのだった。
しかし師匠はふいに押し黙る。
俺はその沈黙の中で、前日にあの四つ辻で京介さんが倒れたシーンと、そのあと
に襲われた悪寒が脳裏をかすめ、ジワジワと気分が悪くなっていった。
「犬神の作り方として伝えられる記録に、こんなものがある。まず、犬を土中に
埋め、首だけを出して飢えさせる。そして飢えが極限にきたところで餌を鼻先
に置き、犬がそれにかぶりつこうと首を伸ばした瞬間にその首を鉈で刎ねる。
"念"の篭ったその首を箱に納めて術を掛け、犬神とする。その時、残された胴体
は道に埋めたままとし、その上を踏みつけられることで犬の「念」は継続し、ま
た強固なものになっていく。その道が人の行き来の多い、四つ辻であればなお理
想的とされる」
「うっ」
思わず吐き気がして口を押さえた。
嫌な予感が頭の中でパチパチと音を立てているような気がした。
ユキオが原付に乗ってやって来たのは、朝の10時過ぎだった。
「おー、リュウ。お出迎えとは珍しいにゃあ」
そう言いながら、軒先に座っているリュウの頭を撫でた。俺も朝方、飯を食べに
ノソノソと犬小屋から這い出てきたリュウの顔をじっくりと観察したが、記憶のヴェ
ールは「自信ないけど、リュウらしい」という程度にしか、真実に近寄らせてくれ
なかった。
「じゃあさっそく行こう」
ユキオが原付で先導し、俺たちは師匠の運転で伯父に借りた車に乗ってついていった。
最初京介さんが運転席に乗ろうとすると、師匠が「初心者マークは大人しく後ろに乗
ってろ」というようなことを言って、「そっちも大した腕じゃないくせに」と言い返
され、険悪なムードになりかけたことを言い添えておく。
ユキオの「先生」は、本当に学校の先生だったらしい。ユキオは小学校の頃に教わった
ことがあるそうだ。定年になり、子供たちが独り立ちすると山奥に土地を買って住ま
いを構えて奥さんと二人で暮らしているとのことだった。
「こんな田舎で公務員なんてやってると、デントーってのを守る義務から逃げれんが
よ」
出掛けにユキオはそう言ったが、神楽を習っていること自体はまんざら嫌でもない様
子だった。
「先生はちょっと気難しいき、変なこと言うても気ぃ悪うせんとって下さい」
俺は幼い頃に見た白装束の太夫さんの神秘的な横顔を姿を思い浮かべた。
車は一度国道に出てから川沿いを走り、再び山側へ折れるとそこからは延々と山道を
上って行った。
道は悪く、割れた岩のかけらのようなものがアスファルトの上のそこかしこに転がっ
ている。
「これって落石じゃないのか」と師匠はぶつぶつ言いながらも慎重に石を避けていく。
昨日より幾分日差しは穏やかで、車の窓を開けると風が入ってちょうどいい涼しさだ。
山の斜面に蛇の黒い胴体を見た気がして身を乗り出した時、後部座席のCoCoさんが
ふいに口を開いた。
「バイクから、離れない方がいい」
さっきまで隣の京介さんを意味なくくすぐって騒いでいたのに、一変して真剣な響
きの声だったので思わず前方に視線をうつす。
ユキオを見失いそうになっているのかと思ったが、適度な距離を保ったまま車はつ
いていけている。
どういう意味だったのだろうとCoCoさんの方を振り返ろうとした時、不思議なこと
が起こった。
ユキオの原付が加速した様子もないのにスルスルと先へ先へと遠ざかって行くのだ。
坂道でこっちの車の速度が落ちたのかと一瞬思ったが、そうではない。速度メー
ターは同じ位置を指したままだ。
何が起こっているのか理解できないうちに車は原付から離され、ユキオの白いヘル
メットはこちらを振り向きもしないで曲がりくねる山道の奥へと消えて行こうとし
ていた。
「アクセル」
京介さんが鋭く言ったが、師匠は「踏んでる」とだけ答えて真剣に正面を見据えて
いる。
こちらが遅くなったわけでも、原付が早くなったわけでもない。俺の目には道が伸
びていっているように見えた。
周囲を見回すが、同じような山中の景色が繰り返されるだけで、一体どこが「歪ん
で」いるのかわからない。
そうしているうちに完全にユキオの原付を見失った。道は一本道だ。追いつくまで
は、このまま進むしかない。
師匠は一度ギアを落としたが、回転音が派手になるだけで効果がない。
「まずいなあ」
ギアを戻しながら呟く。
「これって、なんの祟り?」
師匠の軽い調子に、京介さんは「知らない」と突き放す。
俺は今起きていることを信じられずに、ひたすら目をキョロキョロさせていた。ま
だ午前中の早い時間帯だ。すべてが冗談のように思える。
「実にまずい」
前方に目を向けると、道がますます狭くなっているような気がした。カーブもきつ
くなっていて、フロントガラスの向こう側の景色はいちめんに屹立する木、木、木。
緑色と山の黒い地肌が壁となって迫ってくるかのようだ。
ギリギリ二車線の幅が、今は完全に一車線になっている。ガードレールも消えさって
しまった。
右側は渓谷だ。転落したらまず、命はない。
反応を見る限り、俺が見ているものを他の3人も見ているのは間違いない。
集団幻覚?
そんな言葉が頭をよぎる。しかし、車のアクセルの効果までそんなものに束縛されて
しまうのだろうか。
「なあ」と師匠がCoCoさんに呼びかけた。
「これって、夢じゃない?」
CoCoさんは首を横に振る。師匠は少し経ってから頷く。
奇妙なやりとりだ。
「なにか他に異変が起きてくれれば、ヒントになるんだけどな。たとえば木の枝に」
人間がつりさがっているとか……
囁くような師匠の口調に、思わず身を竦める。
本当に周囲の山林のなかにそんな不気味な光景が現れるような気がして、チリチリ
とうなじの毛が逆立つ。
前へ伸びる道と後ろへ伸びる道。その両端が、曲がりくねる山のどこかで繋がってい
るようなイメージが頭を掠め、ゾクリとした。
師匠は迫ってくる鋭いカーブに際どくハンドルを切り続けている。まるで止まること
を畏れているようだった。
異変、異変。
そんなフレーズが頭の中で繰り返されていると、視線の中に見覚えのあるものがチ
ラッと映った気がした。
山の斜面に目を凝らすが、あっと言う間に通り過ぎる。
少しして、前方にもう一度同じものが現れた。それを見た瞬間俺は叫んだ。
「蛇が!」
師匠が素晴らしい反応でブレーキを掛ける。
車はカーブする斜面に半ば擦りそうになりがら止まった。
京介さんが後部座席のドアを開けて飛び降りる。そしてすぐさま木の根っこをよじ
登り、山肌に横たわった黒い蛇の姿をとらえた。
俺たちも車から降りて近づく。
見ると、その黒い頭には長い釘が深々と突き通っている。頭から顎まで貫かれて地
面に縫い付けられ、蛇は死んでいた。丈の短い草の中にのたうつその体が、地下水
のように湧き出たどす黒い血のように見える。
京介さんが右手の指を絡ませ、その釘を抜いた。
その瞬間、上空から。
上空から、としか言いようがない場所から耳をつんざく様な悲鳴が聞こえた。男と
も女とも、そして人とも獣ともつかない声だった。
しかし次の瞬間、説明しがたい感覚なのであるが、一瞬にしてそれが幻聴だとわかっ
たのだった。そしてなにか目の前の光景が今にもペロリと裏返りそうな、そんな不
気味な予感に襲われる。
ざわざわと木の枝が鳴って、俺は足を棒のように固まらせていた。
「車に戻れ」という師匠の声に我に返ると、逃げ込むように助手席に飛び乗った。
シートベルトをする暇もなく、車は急発進する。
そして次のカーブを曲がるや否や、ユキオの原付が目の前に現れた。
遠ざかって行く前となにも変わらない様子で山道を走り、白いヘルメットがゴトゴ
トと揺れている。
道もいつの間にか元の幅に戻り、ガードレールも所々へこみながらもちゃんと両側
にある。
俺は言葉を失って、首をゆるゆると振る。
まるでさっきまで緑色の迷宮に閉じ込められていた間、時間がまったく経過していな
かったかのように、すべてはすっきりと繋がっていた。
今まで心霊体験の類を数知れず味わってきた俺にも、まるで白昼夢のような出来事
に呆然とせざるをえなかった。
「やってくれたな」
師匠が深く息を吐いて、背もたれに体を預けた。
「今のが人間の仕業とは」
言葉の端から、ゆらゆらと青白い炎が立つような声だった。
京介さんの方を見ると、さっきの蛇に打ち込まれていた釘を手にしている。
「持っていろ」
そう師匠が言ったとたん、京介さんは窓からそれを投げ捨てた。
「おい」
怒るというより、溜息をつくような調子で師匠が咎める。
京介さんは、「よけいな物がよけいな物を招くんだよ」と言って横を向いた。
師匠は恨めしそうにバックミラー越しに睨んでいる。
前を行くユキオがハンドルから片手を離し、山側を指さした。
もうすぐ目的地だ。ということらしい。
まもなく俺たちは山の中にぽつんと立つ一軒家に辿り着いた。
伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。広い庭に鶏を飼っている。
ユキオがヘルメットを脱ぎながら「せんせー」と家に向かって声をかけ、俺は後ろ
から近づいてその耳元に囁いた。
「なあ、さっき俺たちの車を見失わなかったか」
「いや」
ユキオは怪訝そうに首を振る。
そうだろうとは思った。おそらくあれは、俺たちの霊感に反応したのだろう。ユキオ
には何事もない山道にすぎなかったはずだ。
だが、俺たちが狙われたのは明らかだった。なにか、「警告」じみた悪意を感じた
からだ。それは、京介さんが足から血を流したあの四つ辻で感じたものと同質のもの
だった。
俺は師匠の顔を見たが、首を横に振るだけだった。
なりゆきにまかせよう、というように。
「電話しといた例の人たちです」
ユキオが玄関の中に体を入れながら奥に向かって言葉をかける。
奥からいらえがあって俺たちは家の中へ招き入れられた。
畳敷きの客間に通され、その整然とした室内の雰囲気から正座して待った。
廊下がきしむ音が聞こえ、白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。ユキオの小学
校の先生だったというので、もう少し若いイメージだったが、70に届こうという
歳に見えた。
先生は客間の入り口に立ったままで室内を睥睨し、胡坐をかいているユキオを怒鳴っ
た。
「おんしゃあ、どこのもんを連れてきたがじゃ」
「え」
と言ってユキオは目を剥いた。
俺は驚いて仲間たちの顔を見る。
先生は険しい表情をしたまま踵を返すと、足音も乱暴にその場から去ってしまった。
それを慌ててユキオが追いかける。
残された俺たちは呆然とするしかなかった。
しかし師匠は妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。
「あの爺さん、どこのモノを連れてきたのか、と言ったね。そのモノはシャと書く
"者"じゃなくて、モノノケの"物"だぜ」
あるいは、オニと書く鬼(モノ)か……
師匠はくすぐったそうに身をわずかによじる。
京介さんがその様子を冷たい目で見ている。
やがてもう一度襖が開いて、先生の奥さんと思しきお婆さんが静々と俺たちの前に
お茶を並べてくれた。
「あの」
口を開きかけた時、ユキオを伴って再び先生が眉間に皺を寄せたままで現れた。入れ
違いにお婆さんが襖の向こうに消える。
座布団をスッと引き寄せながら先生は俺たちの前に座った。ユキオも頭を掻きながら
その横に控える。
「で、」
先生は深い皺の奥から厳しく光る眼光をこちらに向けて口を開いた。
「先に言うちょくが、わしは本来おまんのようなもんを祓う役目がある」
その目は師匠を見据えている。
「その上で聞きたいことというがはなんぞ」
師匠は怯んだ様子もなくあっさりと口を開いた。
「いざなぎ流の勉強を少し、させてもらいました。密教、陰陽道、修験道、そして
呪禁道。それらが渾然一体となっているような印象を受けましたが、陰陽道の影響
がかなり強く出ているようです。明治3年の天社神道禁止令とその後の弾圧から土
御門宗家はもちろん、有象無象の民間陰陽師も息の根を止められていったはずです
が、この地ではどうしてこんな現実的な形で残っているのでしょう」
先生は表情を崩さずに、
「知らん」
とだけ答えた。
「まあいいでしょう。法律の不知ってやつですか。そういえば『むささび・もま事
件』ってのも舞台はこのあたりじゃなかったかな。……話がそれました。ともか
くいざなぎ流はこの平成の時代に、未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを真剣
に行っているばかりか、"式"を打つこともあるそうですね」
「式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり」
「まあ付け焼刃なのは認めますが。僕が知りたいのは実は犬神筋についてなのです」
「わしらには関係ない」
先生は淡々と返す。
「まあ聞いてください。ご存知でしょうが、犬神筋というのは四国に広く分布する
伝承です」
師匠は正座したまま語った。
曰く、犬神を祓うことのできるわざの伝わる場所には、それゆえに犬神が社会の深
層に潜む余地があるのだと。ましてそんな技法が日々の生活の中に織り込まれている
この地では、犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。
「ここに来る途中、頭を釘で貫かれた蛇を見ました。明らかに呪いをかけるための
道具立てです。もし仮に、誰かの使っている犬神の、その胴体を埋めてある秘密の
場所を見つけられてしまったとしたら、その誰かは一体どうするのでしょうか」
師匠が言葉を途切れさせたその瞬間、みんなの手元に置いてある湯飲みが一斉にカタ
カタと鳴りはじめた。
地震かと思い、とっさに電灯の紐を見る。
紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子の白い紙も微かに振動していた。
こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、じっと見つめている。俺はどうやらただ
の微弱な地震らしいと思ってなお、得体の知れない胸騒ぎがした。
揺れが収まってから先生はゆっくりと口を開く。
「いね」
え? と問い返す師匠に、「帰れ、という方言です」と耳打ちする。
「それは、この地を去るほかないということですか」
師匠は急に立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。サーッと木が擦れる心地
よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。
縁側の向こうでは、庭につくられた垣根の中で鶏が地面をついばんでいる。
その様子を見ながら、師匠がボソっと言った。
「全然騒ぎませんでしたね」
さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。
確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。
「なんとかなりませんか」
師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。
ユキオはよくわからないままにオロオロしているように見えた。
「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。フィールドワークのために
郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。そん
な部外者もみんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」
魔物と来たよ。
師匠は声になるかならぬかという小声で足元にこぼし、また顔を上げた。
「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために
"幣"という紙細工を作るそうですね。魔群というんですか。川ミサキだとか、水
神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。それ
ぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という
形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。ヤ
ツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえば随分
可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」
師匠は障子を閉め、一瞬室内が暗くなる。
「犬神の幣がないのはどうしてですか」
誰の気配ともしれない、ハッとした空気が漂う。俺は固唾を飲んで師匠を見ている。
「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れな
い。あるいは見落としかも知れない。でもどこか引っかかるんです。犬神は深く
土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。いざなぎ流によっ
て祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」
先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、深く溜息をついた。
そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。
「わかりました。いにますよ」
いにますって、使い方合ってるよね。
師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出て行
ってしまった。
残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。
出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに退散する羽目になるとは思わなかった。
と、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。
帰れと言われた去り際にそんなことをするなんて、少し京介さんのイメージとはズ
レがあり、奇妙な行動に思えた。
すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。
「貸してるタリスマンは持ってきたか」
かぶりを振ると、独り言のように「気をつけろよ」と言って部屋から出て行った。
俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。
思わず手を離す。
出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪わ
れたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。
まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。
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