若ハゲは死についてどう考えているのか?
小生は「死ぬ事」、すなわち此の世から消える事にはあまり恐怖を感じない。 子供の頃から死のことや「もしビックバンが起こらなかったら
オレは此の世に生まれてないんだナァ。それどころか、こんな事を考える人間というものが 存在しないんだものなぁ」なんて事ばかりを考えて居た。
(水木茂のマンガばかり読んでいた。宇宙に超新星が永遠に変化無く浮かんでいるのを想像するのが好きだった)
そういうことが影響しているのか、それとも、幾度かの死にそうになった時の体験が関係しているのだろうか。
登山をしていた頃、2度ほど転落しそうになった。幼少の頃、3mくらい深い河に落ちた。
幼稚園ではなぜかでかい本棚が倒れてきて下敷きになった。スローモーションで見えたのと、幼稚園の先生?が不思議がっていたのをおぼえている。 あと、一番死に近かったのは、カメラマンの頃、休日に林道を車で走っていて、
後輪が滑って雑木林に突っ込んだときだろう。JAFの人に「キミ、良く死ななかったナァ」と言われた。 そう云えば、自転車に乗っていたとき車に跳ねられた事もあったな。
いずれにせよ、事が起こる瞬間に「あー、之は死ぬかな」というような具合で、特に恐怖を感じなかった。 山で水を切らした時も「どこかに雪渓でも残ってないかな。まぁ此処まできたら
引き返すより進むほうが近いハズだから・・・」とあせる事はなかった。 小生は北海道の隠れた観光スポットを探しに、一人で獣道によく入ったものだが、
熊殿がお出ましになるところも平気である。本棚が倒れてきたときも、 避けようとも想わず、素直に本棚と一緒になって倒れた。
だから生まれつきそういう性質なのかもしれない。
自殺については、他所で書いているとおり怖いと想う。とても 度胸が伴わない。なにが怖いって、痛い苦しいというのもあるが、 なにか自殺という行為、つまり樹海にロープを持っていって輪にして首を通し、脚立 に上るところを想像すると、怖い。どうも鳩尾のあたりがナヨナヨして腹が落ち着かなくなる。 気持ち悪いと言ったほうが近いのかもしれない。 むかし受験で落ちた時、腹に包丁を突きつけたことがあったが (たしか腹切り自殺か殺人か判断するのに、ためらい傷ってのを見るんだよな。 やっぱりオレも一撃で割腹するのは無理なのかな)なんてことを考えるのがやっとで、 本気にはなれなかった。
自分は死後というのはまったく何も(自意識も)ないのではないかと想っている。 あえて死後を想像すると、ただ何も無く、真っ暗が永遠と続く様子が思い浮かぶ。
それは宇宙に浮かぶ超新星とまったく同じようなイメージで怖くない。実際の死後はどのようなものかわからないが。。。
死。それはごく普通のことのように想える。 生と死に分かれているのではなくて、人生の延長線に死があるイメージ。
死はただ漠然とそこにある。
たとえば若ハゲの人生という道がまっすぐ伸びていて、 その先に暗いモヤがかかっている。モヤが濃くなって真っ暗になったら死ぬと解っているが、
ただ進んでいけば良い。と言った感じ。
結局、小生は自決は恐ろしいが、偶発的に死んでしまう事は怖くないらしい。 事実、感電死の可能性がある仕事に迷いも無く就こうとしている。
長々と書いたが、まとめると。
1 死に至ることは怖くなく、拒みもしないだろう。
2 自殺は行為じたいが怖く、実行できない。
3 死後の世界を考えておらず、とうぜん恐れや希望も見出していない。
つまり「もう死にたい」と成っても、 小生の場合は事故や病気により死ぬことを願うより他ない。
そして偶発的なことが起こらぬ限り、死ぬまで生きていくのである。 生きていくと成ったら、イヤが応にも
何とかしなければならない。いい思いは出来なくとも、重労働や激務といった 苦痛を避けたいものだから、ない知恵を絞り、残り少ないエネルギーを使う・・・ダメ人間ライフの始まりだ。
それでも「もうダメだ」となったら、印度に行こうと想っている。 自殺の恐怖や重労働よりもインドのほうが小生にとっては、はるかに現実味のある選択肢なのだ。
いつのまにか「死」について書いていたはずが、 どうやって生きるかに話がすりかわっている。
小生にとって「死ぬ事、すなわち、生きる事」と云えるかも知れない。 偉そうに書いたが、死ねないから生きていると変わらないだろう。
「死ぬ=生きる」
これは、今の世の中に満ち溢れている「毎日つらいけど死ねない」人たちも 同じようなものかもしれないなぁ。と想う。
「どうやらオレは自殺できない。死ぬまで生きていくしかないんだなぁ」と 悟ったら、自然とこういう考えになっていくんじゃないかな。