小学期

不思議泣き虫小学生

小1〜小4
小学校に行くようになって、さらに理解できない事が増えた。
 例えば学校でのひとコマ。 授業中に10問程度の小テストがなんまいも配られる。 問題を解いて先生のところに持っていって全問正解だとりんごのシールがもらえる。 これを壁に貼ってある、自分の名前が書いてあるリンゴの木の絵に張るわけだ。
みんなは急いでプリントをやって、先生のところに並ぶ。そしてシールをもらっては嬉しそうにリンゴの木に向かう。 小生はそれをボーっと見ている。りんごのシールは別にほしくないし、 シールを貼る事に何の意味も感じなかった。
 今考えれば、あのリンゴの木は、大人の世界では事務所に張ってある個人の売上表みたいなものだな。 こういうものを楽しめない子供だった小生は、すでに社会のレールにのる資質がまったく無かったのかもしれない。

 漫画・アニメにもまったく興味が無かった。とうぜんドラマにも。 何が面白いのかさっぱり判らなかった。むしろ面白がらせようとしている 展開やドラマの役者などが苦々しく思えた。それを楽しいでいる周りや親に対して (他の人とあわせるために楽しんでいる振りをしているのかな? それとも本気で・・・・・・)と常々疑問だった。

流行についても同じだった。ミニ四区はプラスティックの塊、 ビックリマンは何処からどう見たってただのシールにしか見えなかった。
そんなもんで、当然ともだちも出来ない。誰かと遊ぶのは月に1回ぐらいだったと想う。 部活もやっていなかったから、 学校から帰って犬にくっついて一日中ゴロゴロしていた。 この犬がいなかったら、今以上の妄想家になっていたのかも知れない。

 小生はいわゆる泣き虫だった。騒いだり大声を出している普通の小学生自体が理解できなかったし、 自分の強さを誇示する「腕白な小学生」はなおさらわからなかった。 何のために暴れているのか判らないのだから、いつ何時暴れだすかなんてなおさら判らない。 判らないから危険を回避できずに巻き込まれる。正直、大人や先生より、同世代のほうが 何をするか判らなかったので恐ろしく感じていた。 唯一できる、危険を遠ざける方法は、出来るだけ関わらない事だった。 できるだけ喋らない。できるだけ近づかない。自然と輪からはずれる。 いつも一人の変な泣き虫ヤロウの出来上がりだ。

ばい菌マン

小生は低学年の頃、ばい菌扱いされていた。 クラスに一人はいるだろう。 たいていそういう奴は、下品だったり机のなかがゴチャゴチャだったりするものだが、 小生の場合は違った。 毎日おなじ服を着ていたので「うわー、若ハゲって毎日おんなじ服だ。不潔だー!」 といわれ、それからはばい菌扱い。「げっ 若ハゲの机さわっちゃった」 「きたねーな近寄んなよ」「エンガチョーww」「ざけんな若ハゲ!」 「うりー 若ハゲ菌食らえwww」
本当は横着な母が、セールのときに同じ柄の安い服を何枚も買ってきて 使いまわしていただけなのだが、小生はみんなに弁解も説明もしなかった。 めんどくさかったし、そういうことで差別する連中に 「服だけで判断するバカどもになんて、どう想われようがかまわん」 という変なプライドがあって、結局卒業するまで説明しなかった。だから小学校卒業までばい菌マン。 どんどん差別が出来てくる小学生低学年の頃に、逆に差別される側にあったんだな。 これじゃ差別大好き国家日本に順応できるわけ無い罠。、

教師たち

僕の小学校では、今ではPTA大騒ぎの教師がたくさんいた。
まず3年生の担任のM先生。まだ僕らの時代にも残っていたのである。 伝説のケツバットが! ケツバットがわからん若人に説明すると、生徒を立たせ、そのままお辞儀するように 机に手をつかせ、お尻をバットで叩く。いわゆる体罰だ。
それをM先生は、毎日ある漢字テストで、8点以下(10点満点)だと無条件にやる。 むちゃくちゃだが、女でも容赦せずにやったのだから、平等な先生だったのかもしれない。 ケツバットには段取りがあって、まず机の前に立たされると「きおつけ!」「45度前!」と M先生の声で、我々は体罰を受ける姿勢になるわけだ。そしてパシィン! 「もどって良し」 帰りの会では自らギターを弾いていた。そんな人がいたんだな。

1年のときの担任K先生。この人はいつも汚い格好をしていたが、 これまたなかなか個性がある先生だった。 ちなみに上記の、リンゴシールみたいなのもこのクラスでやった。 僕は貧血気味で、この頃はとくにひどかったので、M先生になんどか助けられた。
授業中、教科書をよんでいると、だんだん自分の声が響いてきて、視界が白黒になってくるではないか。 苦しい事はなく、むしろ不思議だった。やがてTVの砂嵐みたいなのが入ってきたが、 自分の声の響きを楽しんで、教科書を読んでいたが、いつのまにか倒れたらしい。 気が付いたら寝かせられていた・・・・・教室で!  M先生はどうして貧血と判断したのかは知らないが、とにかく 貧血だから足を高くしなければと、僕を床に寝せて足を椅子に乗せ、 僕は助かった。後日、バカなガキどもに「若ハゲ、金欠病なんだって!」と 騒ぎ立てられたのはいうまでも無い。
もう一つ、K先生が授業中とつぜん「みんな上を向きなさい」 と言い出した。みんなは不思議そうに上を向いた。僕も向いた。 「では、唾を吐きなさい」 あちこちで唾をはく音がする。僕は唾を吐くフリをした。 そのあとK先生は「先生から言われたからって、君たちは何でもいうことを聞くのか?  氏ねといわれたら死ぬのか?」というような事をいったような気がする。 よく考えればK先生は、僕の貧血を教室でなおしたように、出来るだけ物事をガキどもに見せて、 自分で見て考えて行動しろということを教えたかったのだろう。

ビックリマン

僕はまだ親になにか物をねだった事が無かった。 野球部に入るまでは、小遣い0円だったが、まったく困らなかった。 お年玉を貰っても、お母さん銀行に一直線。 たまにジュース代もらっても、お金をテーブルとかに放っておいて、よく親に怒られた。 僕にとっては、お金をしまう事より、犬にくっ付いていたり雲を眺めるほうが重要な事だった。

そんなある日、母が「ビックリマン」を買ってきた。 「お金をやるから、週に一度、駄菓子屋に買いにいけ」といわれた。 もちろん僕はいちども欲しいとは云いも想いもしなかったが、さからって怒られるのがイヤだから 従った。きっと母は、おもちゃなどに興味をしめさない小生をなんとか普通の子どもにしようと想ったのだろう。 おさない小生に、いちいち物欲をつけさせるなんて、まったく余計な事をしてくれたものだ。 よっぽど普通の子供が欲しかったのだろう。
ビックリマンというのは、キャラクターが描かれたシール付きお菓子で、 このシール集めがはやっていて、同世代はみんなお母さんの財布から小銭を盗むほど躍起になっていた。 でも僕にとってはただのシール。でも怒られるのがいやだから、めんどうくさいけどしばらく買いに行っていた。

シールが20枚ほどたまったところで事件がおきた。僕はシールもお金とおなじように 適当に机の上に置いておいた。ある日、Kが遊びに来て、帰るとカードが一枚なくなっていた。 「ヘッド」と呼ばれる一番レアなピカピカひかるシールだ。 翌日、学校でKが「オレ昨日ヘッド当ったぜー!」と自慢していた。 僕は母の命令どおりに「K君、カード盗んだ?」と聞いたら「盗んでなんかないよ」と答えた。 僕としてはシールなんてどうでも良かったが、母に学校で聞くように云われたのだった。
Kはお調子者で、遊びに行くと必ず帰り道は送ってくれた。Kの母の 「ウチの子はちゃんとお布団たたむのよ」という自慢を何度か聞かされた。 そのたびに(僕なんかに自慢してどうするんだろう?)と想ったものだ。

幸いなことに母は「じゃあ、もう集めるの止めたら?」といってくれた。 その代わりに恐ろしい事言い出した。 「若ハゲ、どうせ止めるんだったら、ビックリマンあげるから遊んでって 、ガキ大将のGに電話しなさい」 このとき、僕は(この人はナニをいっているの? 僕の事ぜんぜん分かってないんだ。 世間の評価ばっかり気にして誇りはまったく無いんだ。自分はこんな奴らには絶対なりたくない!)と決心したのを覚えている。 (そんな人をモノで釣るような事が上手くいくもんか)と想っていたが、電話するとあっさりG君はOKした。 電話中も「おまえ、遊びに行ってもいきなり全部あげないで、何回かに分けてあげるんだよ!」 なんていってやがる。(なんて親だ! なんでも世間体と普通ばかり求めやがって!)
そういう大人が満ち溢れている事を、当時は知らなかったんだな。 もっと誇りと自我がある大人がたくさんいると想っていたんだな。 結局G君はシールに関係なく遊んでくれたが、僕にとっては苦痛でしかなかったので、 シールがなくなったことにして、すぐに遊びに行かなくなった。

席代え

僕にはとうぜん友達は少なかった。なぜかワガママな金持ち息子や 転校生と仲良くなることは多かったが、それでも毎日遊ぶといったような事は無く、 またクラスには仲が良い人が少なく、いたとしても僕は彼らにとって5番目6番目の友達なのだ。 それで困るのが、席替えの班づくり。なにせ菌扱いの人間なぞ、 自分の班にいれる奴はいない。

そんな席替えの日、班づくりの方法が「好きなもの同士」が良いという 意見でまとまりかけていたが、僕はナニをおもったか 「それだと僕みたいな嫌われている人が困る」 と発言したのだ。だが公平=多数決という法則が学校でもとうぜんのごとく蔓延していて、 結局「好きなものどうし」で班を作る事になった。

いざ、班作り開始。いきなり女の子が寄ってきた。 背が高くて頭が良くて、学級委員長とかやってる女の子。 「若ハゲ君は、わたしの班にいれてあげるからね」 屈辱を感じた。彼女は優しさで云っていて、悪気が無いのも理解していたが、 小学校低学年の僕はひどく屈辱を感じた。
人間って他人の事をぜったいに理解できないんだろうなぁ。という確信が強まった出来事だった。 善良であろうとする人間は、冷酷で、たやすく人を傷つける。じぶんが善良であるが為に。 善人アピールをする奴は大嫌いだ。今でも。。。

田舎

ガキの頃から、夏は母方の田舎で過ごすのが恒例になっていた。 田舎はまだ田舎であって、どじょうを追えば一升瓶いっぱいに取れるし、 家の裏の自然薯掘りもよくやった。きのこ取りで毒キノコばかり 集めてしまうのはお約束。鬼ヤンマが飛んでいて、胴体が赤いでかいアリがいっぱいいた。
田舎のおじさんたちはみんなタバコを吸い酒飲みで、 仕事をしたりしなかったりフラフラしていたが健康的でなんでもやった。 僕もペンキ塗りを一緒にやったっけ。彼らのおかげで、もうコノ頃から僕には お酒へのあこがれ見たいなのがあったと思う。
食い物はうまい。どじょうに泥を吐かせて、豆腐に潜らせそのまま煮る。 タラの芽、薇の揚げ物。福島の醤油は甘い。ほうれん草も甘い。 自然薯に酒と卵をいれて摩る。どじょうの丸呑みもした。
ばあちゃんは僕の顔を見るたびに 「うんと勉強して偉くなるんだぞ」と言っていた。「オメは飯くうの遅ぇな、 飯はな、こうやってあんぐあんぐ食うんだぞ」  我が家がつれてきた犬を見るたびに「オメは犬の癖に家にあがって」といい、 しかられた犬のほうは、なんで叱られているのか不思議そうな顔をしていたな。

野球部・短い充実期

小5・6
このころ僕は激変した。4年生のおわりにKに誘われて野球部に入って、 泣き虫でなくなっていた。 これは別に運動するようになったからというのではなくて、 毎日練習に出ることが、周りに評価されたからだと想う。 僕は朝練だけはかかさず出ていた。(午後練はさぼっていた) それが大人たちに好感をあたえたらしく、まさに好青年あつかいで、みんな 若ハゲを見習えといわんばかりだった。だが実力はからっきしで、 度胸が無かったのだろう。練習だとバカバカ打つが、試合だと泣かず飛ばず 、足で稼ぐ選手だった。(少年野球の盗塁は簡単) 試合で打席にはいっても「アウトになったらどうしよう・・・」と思ってしまう、 スポーツ選手としてはまず活躍できないタイプだった。  でも大人が認めるから、みんな認めた。後輩からも尊敬されていた。 とくに僕になついてくれたM君。素直でまっすぐで、僕から見ても好青年だった。 彼は立派になっているだろうか。素直なゆえ人生が曲がらなければ良いが・・・・・・  彼が今の僕を見たら、がっくりするだろうな。。。

初めてモノをねだる

僕はずっとおやに物をねだった事が無かった。 それを心配した親が、前述のとおりビックリマンを買ってきたり、 あまつさせファミコンまで買ってきた事も合った。 (ドラクエVも母親が誕生日にかってに買ってきた)
また夏休みに田舎に帰ったある日、従兄弟がゲームウォッチが欲しいといいだし、 僕と母と従兄弟で出かけ、従兄弟はお望みのゲームウォッチを買ってもらった。 僕は「イラナイ」といったが、母親に無理やり機種を選ばれて買った覚えがある。 なんでも「従兄弟にかってやって、お前に買わないわけにはいかないべ」という事らしい。 これも適当にテーブルの上に放置しておいて怒られたな。

ともかく、僕は小学五年生になって、はじめて誕生日に物をねだった。 野球のバット。 でも当時の僕が、本当に野球のバットが欲しかったかと言うと、疑問である。 と言うのは、当時、野球部の間では、誕生日やお年玉は野球道具に使って、 己の野球に対する思いを証明するような傾向があったからだ。

親父コーチ

我が野球部には「コーチの息子はレギュラー」という悪しき風習があった。 僕はへただったし、レギュラーにもなりたくなかったが、父親がものすごい乗り気で コーチになり、そして僕はレギュラーになった。 でも親バカはウチだけじゃなかったらしく、(特に僕の学年は野球部がもりあがった) たくさん親バカコーチが入ってきて、すぐ補欠になった。

僕は前述のとおり、毎日かかさず朝練に出ていた。朝練には親父も出ていた。 練習中はとくに何も言わず、ほかのコーチと同じようにノックやら弾拾いをしていたが、 家に帰ると「なんだあのプレーは!」「あんなの取らなきゃダメだろ」 「みんな出来てるだろ」「何べんいったら分かるんだよ」 「パッパとしろパッパと!」 怒涛の罵詈雑言をまいにち父親から浴びせられた。 僕は怒りとふがいなさとで、毎日トイレの中で泣いていた。 ニートをしていた親父に怒られたぐらいで、揺れてしまう自分の心が 悔しくて泣いた。泣きたくなかったけれど、親に見つからないように毎日トイレで泣いて、 それから学校に行っていた。
そのうち朝練が終わってから、家の中に入るのが怖くなったのだろう、 門の前でぼんやりしている日がしばらく続いた。それをみた父親が 「なにやってんだお前、早く入れってんだよ!」といわれ、またトイレで泣いたっけ。

母もそうだが、いまでは僕の社会復帰に協力してくれる父も、もう二度と愛する事は出来ない。 許す事は出来ない。消えない憎しみが大きすぎて。。。

大人の人生訓

僕は野球の才能がなかったのもあるが、そもそも「上手くなろう・ 活躍してヒーローになりたい・レギュラーになりたい」といった気持ちがまったくなかった。 おかげで大人から認められるために練習だけはバカまじめにしていたが、一向にうまくならなかった。 それを見た親バカコーチにはやったのが、僕に説教、すなわち人生訓をたれる事だ。
朝練が終わると「ちょっとウチに来なさい」と呼ばれる。で、人生訓を聞かされる。 説教なんぞして偉そうな気分になるのがよっぽどが楽しいんだろ。馬鹿げてる! 大人は馬鹿げてる! と思った小学6年の頃。

ヤブ医者と朝練 (死期3)

この頃の僕は、朝練を欠かさないというのだけが、いわゆる生きがいだった。 だから体調が悪い日は、朝練だけ出て学校は休むというような事までしていた。 そしてソレは大人たちにも素晴らしい事として写るようだった。
しかし朝練皆勤賞が途切れる事になる。朝練が終わって家に帰ると、 寒気がする。体がガタガタ音をたてて震える。
地元の医者にいくと「風邪ですね」
いっこうに良くならないので、翌日もう一度いくと「ちょっと強い薬だしましょうかね」
次の日も改善しないので行くと「じゃあ注射うちましょう」
さっぱり良くならない。それどころかちょっと動くだけで腹がよじれるぐらいイタイ。 悪化している。

あんまり記憶が無いのだが、夜、気が付くと「イデー イデー 腹イテー!!」と 布団の上で転げまわっていた。もう意味わからないぐらいイタイ。腹のなかで腸が捩れる感じがする。 母親が部屋にいて「でも、どうする? 救急車呼ぶのなんていやだよ、ハズカシイ」 といっていたのを覚えている。息子の痛みや命より、世間体のほうが大事なんだな。 忘れられない出来事だ。いや、忘れろったって忘れん。
翌日、コレはおかしいと大学病院に行くと「腸にキズがついていますね」だと。
このヤブ医者キ▲ムラ医院め! オレに地獄の痛みを味あわせやがって!

なぜか(親が先生にいったんだろうけど)オレが血便を出した事が学校中に知れ渡っていて、 これまた馬鹿にする道具にされた。 教師というのはデリカシーのある人はなれない職業らしい。

やっと直りかけになって、さっそく朝練に参加した。 参加といっても体は動かせないし、学校にも行っていない状況なので、座ってみているだけ。 でも当時の僕には重要な事だった。そこに母親が来て一言。 「おまえ犬の散歩してきてよ。どうせ練習できないんだからさ」
氏ね。氏にやがれ。

チンポ

どうも僕の具足はこまったヤツである。 幼稚園の頃、チンポの中に蕁麻疹が出来てエライ目にあった。 とうぜんまだ皮が剥けていない状態だったから、親に指をつっこまれて薬を塗られた。

僕は成長が早く、所謂チンゲが生えるのが早かったので、とうぜん冷やかされた。 それだけじゃなく、僕のポジション的には、 男子全員に便所で僕のチンゲ鑑賞会が開かれたりする事になった。 小学生ながら、恥ずかしくて、何より惨めだった。

オナニーを覚えたのは小学生の終わりだった。 正確にはオナニーらしき体験と言ったほうが良い。 コタツの中でTVを見ていて、おしっこを我慢していたら、いきなり来た。 おそらくは始めての射精。 いわゆる擦り付けオナニーの状態だ。正直、このときは気持ちいいより、 自分のチンポがおかしくなったんじゃないかと酷く心配した。 しかし中学生になる頃には自然と繰り返すようになり、その後、皮オナニーをするようになった。 おかげで皮が伸びきって、今では立派な仮性包茎の右曲がりバナナである。
さらに、いつのまにかブツブツが出来てきた。場所が場所だけに、親に云う事も出来ず そのまま放置。引っ張ってもつまんでも、水につけてもお湯につけても痛くも痒くもない ブツブツ。後にこれがフォアダイスという事を知る22歳まで、僕を悩ませ、女性への積極性を失わせる事になる。 知ったときはすでにハゲた後という顛末。
※ 擦り付けオナニーはペイロニー病の原因となる。皮オナニーは仮性包茎になりやすい

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